このパンフレットを公開したときに私が書いた前書きが、私の操作ミスのために失われていましたが、その後印刷したものが見つかりました。その原文は早い時期に入手できていたのですが、復元する手間をとるだけの価値があるのか考えていました。結局、善隣学生会館事件の事実関係について追い続けてきた私の問題意識をまっすぐに表現しているものとして、復元することにしました。当然のことながら、事実関係の追求だけでは、事件の本質に迫れないことは明白です。しかし、私が特に問題にしたいのは、政治的な何がしかの理念をもって、事実関係を偽るようなことが、進歩的を自他共に認める、あるいは認めていた人々の間で行われたのかどうかの確証であるということであるとも書いておきたいと思います。
2003年2月17日 猛獣文士
旧前書きの原文へ

 私の操作ミスがあったのでしょうか、コンピューターウィルスでしょうか、ハッカーのせいでしょうか。前に書いた解説が、消えてしまいました。この文献は、寺尾五郎氏「日中不戦の思想」の第一章で引用されており、日本共産党の「赤旗」紙の記事を反駁する資料として明快な分析をしています。以前書いた解説が復元できたら、ここに復活させるつもりですが、難しいかもしれません。

2002年12月6日 猛獣文士

いわゆる「善隣学生会館事件」を批評する
−『赤旗』のデマ宣伝と日共指導部の修正主義的本質−
京都・中国史研究グループ


目次
一 はじめに
二 「事件」の経過
三 『赤旗』の記事の偽瞞と混乱
(一) 二月二十八日夜の状況
(二) 三月一日朝以降の状況
(三) 三月二日の状況
四 『赤旗』のいわゆる襲撃の論拠
五 日共指導部の修正主義路線とその二、三のあらわれ
六 おわりに
[注]

  一 はじめに

 一九六七年二月二十八日から三月二日にかけて、東京の善隣学生会館で、歴史にその例をみないような不祥事が引き起こされた。日本共産党中央幹部に指揮された多数の共産党員および日本民主青年同盟、自称『日中友好協会』その他いわゆる『支援団体』の集団が、中国人学生らに暴行を加え、重傷者七名を出し、さらに二十余名を負傷させたのである。この空前の不祥事件について、日本共産党は、連日、機関紙『赤旗(1)』に最大限のスペースを使って、あたかも中国人学生が自称『日中友好協会』を「襲撃」したかのように書きたてている。そして中国人学生たちを支持し、暴徒を非難するものに対して、『赤旗』および共産党は「事実を調べもしないで国外の勢力に盲従して日本の民主運動を不当に攻撃している」とわめきたてている。

 そのため善意の人々の中にも、「共産党ともあろうものが、まさか中国人を襲撃するなどということが……」と半信半疑の人がある。そこで私たちは、歴史研究者として、あらゆる資料を集め、事件直後からしばしば現地調査も行ない、真実を明らかにするとともに、特に『赤旗』の記事を資料批判の方法を用いて分析し、それが徹頭徹尾デマであることを、『赤旗』自身によって証明しよう。

 まず最初に簡単に事件の概要について見ておこう。


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  二 「事件」の経過

 そもそも、日共指導部の指揮による凶行が演じられた善隣学生会館は、実質的には、中華人民共和国の財産である。この会館はかつて偽「満州国」がその留学生のための寮として建てたものである。日本の敗戦後、占領軍に接収され、講和条約発効後、外務省に移管された。その後、日中友好を願う人々の努力によって、日中の国交が回復ししだい中国に返還されることになっており、国交未回復の現在では、「財団法人善隣学生会館」が暫定的に運営にあたっている。このような歴史的背景をもつ善隣学生会館は、ただの貸ビルではなく、その使用趣旨に「日中友好と文化交流のために使用」することがはっきりと書かれていることにもみられるように、日中友好のセンターとしての役割をもつ建物なのである。したがって、三、四階には、この会館の本来の主人公である中国人学生の部屋があり、一、二階には、日中友好協会などが事務所を借りているのである。

 一九六三年以来、日中友好協会は、ここに事務所をおいて、日中友好運動を進めてきた。ところが、昨年の初めから、日共指導部が反中国=修正主義路線を明確にするにつれて、『共産党』による日中友好協会への反中国活動のおしつけがロコツに行なわれるようになった。そのような妨害、非友好活動に反対する人々は、日共中央に盲従する多数の事務局員らによって反中国活動の拠点とされるに至った善隣学生会館の事務所から一時退去して、日中友好協会(正統)本部をつくり、友好運動を推し進めることにした。ところが、その後、残留したものは『日中友好協会本部』を自称し、いっそうあからさまな反中国活動を展開し始めた。このような自称『日中友好協会』に対して、会館の本来の主人である中国人学生らが、会館の使用趣旨にももとるので「出ていってくれ」との壁新聞を張り出し、かれらの反中国活動と敢然とたたかった。これは当然のことである。しかも注意さるべきは、会館内に掲示する権利は、従来から、本来の主人である中国人学生だけがもっているのである。

 ところが、これらの壁新聞がしばしば破られた。二月二十八日にも破られた。午後十一時ごろ、抗議した中国人学生彭忠道君を自称『日中友好協会』事務局員村上赳がなぐりつけた。学生たちがそれにつよく抗議したところ、事務局員小山慎平は「日中友好協会の代表」と称して殴打の事実を認め、謝罪文に署名した(2)。ところが、謝罪しておきながら、かれらはその後ただちに動員をかけ、深夜十二時ごろに六、七十名の『共産党員』、『民主青年同盟員』などを事務所に送り込んで殴打犯人引き渡し要求を暴力的に拒否した。さらに翌三月一日の午前三時ごろ、数十名の暴徒が正面玄関で中国人学生らになぐる、けるの暴行をはたらいた。

 同日夕方六時ごろ、中国人学生および日中友好協会(正統)本部会員など約二百名は、殴打事件に対する抗議集会を開いた。自称『日中友好協会』事務所側は、内側からバリケードを築き、抗議文をもって訪れた代表との会見を拒否した。代表は自称『日中友好協会』会長笠原千鶴宅に抗議文を届けた。八時すぎ抗議集会が終わり、外部の支援の人々が帰ってから、日共指導部は二百余名の暴徒を集め会館を包囲した。夜半、四百余名にたっした暴徒は、反中国の聞くにたえないスローガンを高唱するなど、午前二時ごろまで騒ぎたてた。

 三月二日午前七時ごろ、三十数名の暴徒が会館に乱入し、玄関で不寝番四名に襲いかかり、薛永祥、王政明両君を負傷させた。暴徒は『日中友好協会』事務所へ入り込んだ。抗議した中国人学生らに、暴徒はふたたび暴力をふるい、王俊英君を負傷させた。午前十時ごろ、中国人学生らは、会館内で再度集会を開き暴行に抗議した。このころ、会館はまたも日共幹部に指揮される五百余名の暴徒に包囲された。直接、現場で指揮したものは、幹部会員候補内野竹千代、書記局員高原晋一、法対部長青柳盛雄、国会議員岩間正男、松本善明らである。昼ごろ、暴徒は事務所に「弁当」を運ぶことを要求、理事側は前夜どおり、会館管理者をとおして運ぶようにと回答したところ、かれらはそれを拒否した。午後一時すぎ、暴徒は玄関と事務所入口から中国人学生らを挟撃、暴徒は消火器、棍棒、竹竿などを用い、素手の中国人らに襲いかかった。このとき、劉道昌君は意識不明になるまでの重傷を被り、多数が負傷した。その後、かかる凶暴な襲撃の再発を防ぐために、中国人学生らは自称『日中友好協会』事務所入口と正面玄関にバリケードを築いた。午後四時ごろ、ヘルメットと棍棒で武装した暴徒がふたたび中国人学生らを襲撃し、簡仁、近野君らに重傷を負わせた。また、任政光君は、暴徒によって事務所内に引きずり込まれ、全身打撲、頭部裂傷の重傷を負わされたのち、ひそかにかれらの手によって窓からかつぎ出され、病院に連れ込まれた。これらの中国人学生らに対する流血の暴行はすべて日本の警察の眼前で行なわれた。なお、四時半ごろ、会館へ負傷者見舞いにかけつけた廖承志事務所孫平化首席代表に対し、日共都議梅津四郎は、「ここは日本の領土だ。廖事務所の誰がこようと遠慮することはない、排除せよ」と警察に要求までした。

 以上が三日間にわたる事件の簡単な経過である(3)。では、『赤旗』はこの事件をどう「報道」しただろうか。


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  三 『赤旗』の記事の偽瞞と混乱

  (一) 二月二十八日夜の状況

 @ 三月二日付『赤旗』は<中国人留日学生・日中友好協会に卑劣な攻撃>と題して、二月二十八日から三月一日正午ごろまでの状況を「報道」した。それによれば、二月二十八日夜の「事件」の発端は、十数名の中国人学生が、「壁新聞を日中友好協会員が破ったと因縁をつけて日中友好協会を攻撃……本部員に暴行をくわえ」たことにあるという。まず最初が重要である。中国人学生が「攻撃」してきたことに仕立てるためには、なんとしてもかれらが理由もなしに騒ぎたてたことにしなければならない。しかし、自称『日中友好協会』事務局員が壁新聞を破り、それに抗議した中国人学生を殴打したのは事実であり、その謝罪文まであるのだ。この事実をひたかくしにかくして、そこで考え出されたのが「因縁をつける」という特殊なニュアンスをもつ言葉であった。こうして、『赤旗』は主客を顛倒させ、責任を中国人学生に押しかぶせようとしたのである。これが『赤旗』の偽瞞の出発点である。

 A ところで、偽瞞は一方的に押しつけるときにしかなりたたない。『赤旗』は二日付、三日付までは一方的な「報道」を行なうことができた。しかし、中国人学生や日中友好協会(正統)本部などが真相を大衆的に宣伝し始めるとともに、苦境に追い込まれた。四日付以降『赤旗』は華僑学生らの「デマを反駁する」という論理で、自分自身のつくりだした偽瞞を懸命に擁護し始めた。そして、その結果として、記事のうえでの矛盾と混乱を日に日に深めていったのである。たとえば、その主客顛倒についての記述でさえ事件の発端の二十八日夜の小山事務局員に関する記事は、二日付では華僑学生が「とりかこんで脅迫しました」と書かれていたのが、七日付では、「とりかこみ、なぐる、けるの暴行を加え、メガネをたたきこわし、三階のかれらの部屋につれ込もうとした」というふうに「発展」させられたのである。

 B そして、『赤旗』二日付によれば、中国人学生ら「約十人は夜どおし会館玄関にすわりこんで日中友好協会にたいする攻撃をおこない、」「この間、連絡をうけた会員約六十人が本部防衛かけつけ、中国人学生を圧倒し」たとのことである。これも、かれらが攻撃されたらしく見せかける文章のトリックである。会館玄関にすわり込んで協会に攻撃をかけることは絶対にできない。そのことは五日付以降の『赤旗』の会館見取図を見ただけでも明らかである。

 C そこで五日付以降は「玄関にすわりこんで」「攻撃」すると書けなくなって、七日付になると「急をきいてかけつけた事務局員や民主団体の人たちを、かれらは正面玄関でとりかこみ、『修正主義者』とわめいたり、写真をとるなどの妨害を加えました。」とかえられる。このほんの短い二つの記事のなかにもデタラメは数えきれない。その基本は、二日付では、約六十名の「かけつけた」ものが約十名の中国人学生を圧倒したことになっているが、七日付では逆に中国人学生が「とりかこみ」「妨害し」たことにかえられていることである。そして、その際、まさか、「約十人」が「約六十人」を「とりかこむ」ことができるはずがないので人数は注意深くも削られたのである。

 D では、中国人学生の「妨害」の内容はなにか。証拠として『赤旗』にのせられた写真はただ一つ、<日中友好協会本部を襲撃した中国人学生たち>との説明つきのもの(二日付)があるだけである。しかも、これは、いかにも説明は「襲撃」と恐ろしげであるが、写真そのものは、二月二十八日夜、村上が壁新聞を破り、中国人学生を殴打したことに対して、学生たちが抗議している場面であって、「襲撃」とはりもない。これをもし襲撃というのなら、労働組合員が社長に要求をつきつけたり、学生が学長に抗議したりするのも「襲撃」ということになるではないか。

 E 昨夜来、事務所に集まっていた暴徒は、午前三時ごろ、正面玄関で中国人学生らに暴行をはたらいたが、この事件についても『赤旗』は黙して語らない。自分に都合の悪いことは黙るというきわめて卑劣な『赤旗』の本性がうかがえよう。

 以上で二月二十八日夜半の状況についての『赤旗』のデマと混乱は明らかとなった。つぎに三月一日朝以降のことに移ろう。


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  (二) 三月一日朝以降の状況

 F 三月一日の夜のことについては、二日付では、「午後六時ごろ日中友好協会の脱走分子国際貿促の盲従分子、華僑など合わせて約百名は」「本部を襲撃してきた」たという。このときには、かれらは抗議集会そのもの抹殺するつもりであった。しかし、七日付ではこっそりと手なおしされた。

 また、二日付では、中国人学生らが「十八名の事務局員を」「かん詰にし」たことになっている。ところが、七日付では「約六十人を完全に監禁状態にし」「午後八時半から翌朝午前一時半ごろまで」「食事をとることもできず、便所へいくこともでき」なかったことにあらためられる。そして「かん詰め」から「完全な監禁」と書きかえるとともに、中国人学生らが、「協会本部入口前にバリケードをつく」ったという。なぜこうも違うのか。それは、要するに『毎日新聞』(三月二日朝刊)もいうように、自称『日中友好協会』側は「事務所にたてこもり、内側にバリケードを張って抗議をはねつけた (4)」ことを、二日付では抗議という一点を抹殺して「かん詰め」というふうに書いた。そして、五日付以後、かれらが窮地に追い込まれるのと正比例して、中国人学生の「暴行」らしくみせるためには前の記事との矛盾、撞着などにはいっさいおかまいなしということになったからである。なおここで注意さるべきは、自称『日中友好協会』が、中国人学生らの正当な抗議をはねつけるために、内側からバリケードをつくり、事務所内にたてこもったということである。こうした事態はわれわれ大衆運動でよく経験することである。官庁や大学に抗議デモをかけて抗議文を手渡そうとすると、事務員たちはドアに鍵をかけて、受け取るのを拒否する。そしてかれらは「軟禁された」といって必ず騒ぐのである。『赤旗』の記事のなんとよく類似していることであろうか。


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  (三) 三月二日の状況

 G 三月二日午前七時、三十数名の暴徒が車で乗りつけて会館に乱入し、薛君らを負傷させたことについても、『赤旗』は何も書かない。そして、またもや、その暴行に抗議にきた学生らを「襲撃」したことに仕立て上げる。三日付によれば「二日午前七時ごろ三たび日中友好協会事務所を襲撃、……事務所入口でスクラムを組んでいた事務局員らになぐる、けるの暴行をくわえ、バケツで何ばいも水をあびせ、一人で便所に行こうとした森下幸雄……をとりかこみよってたかって暴行を働き」「全治三週間の重傷を負わせ(5)」たとある。この記事自体が、『赤旗』の騒ぎたてる「襲撃事件」が完全なデッチあげであることを証明している。「襲撃」されている最中に「一人で便所に行」くというような「襲撃」をだれが認めるだろうか。さすがに『赤旗』もこれはまずいと考えたのか、七日付に至って、「襲撃」と「便所行き」のあいだに前後関係を設定したのである。

 H 同日昼ごろ、約五百名の暴徒が会館をとりまき、事務所内部にも約五十名の暴徒がたむろしていた。暴徒側は事務所内に弁当を「差し入れる」ことを要求した。「差し入れ」などと大ゲサに書きたてているが、窓もあれば裏口もあり、ヘルメットや人間や棍棒までも、そこを通って自由に事務所に出入りしているのである。にもかかわらず、日共指導部がわざわざ弁当の「差し入れ」を要求し、会館理事者がわが昨夜どおり自分たちが自称『日中友好協会』に渡すと答えたところ、わざとそれを拒否したのはなぜか。それは、かれらが中国人学生らになぐりかける口実を得るための挑発であった。だから、『赤旗』はいわゆる「差し入れ」問題について、そのいきさつをいっさい書かないのである。この挑発を契機に、劉道昌君が重傷を負った暴行が演じられる。

 このときの状況についての三日付の『赤旗』記事は、東京地方で配布されている第四版(本文は全体としてこの版による)と、京都地方で配布される第三版とでは、大幅に違う。その第三版も三日付と四日付ではまた違う。このように版によりさまざまに違うこと自体が『赤旗』の確信のなさの告白であるが、第三版の記述ぶりを見よう。中国人学生らは「午後一時四十五分ごろ協会本部入口廊下で、弁当の差し入れを要求していた支援の人たち約五十人におそいかかり、」「暴行をくわえ」たが、「支援の人びとはこれにひるまず反撃し、かれらを一歩も本部内にふみいらせ」なかった、と(三日付*)。ところが、この同じ事件が四日付*になると、「同日午後一時半すぎ、在日華僑学生たちは、日中学院の机などを持ち出して、本部入口前にバリケードをきずき、これをとりのぞこうとする防衛隊に」「暴行を二時間にわたって加え」たと述べられる。ここでは、かれらの暴行の口実とされた「差し入れ」はもはや忘れられ「一時半すぎ」の暴行のあとで築かれた「バリケード」問題が口実にされている。

 I 日共中央幹部に指揮された暴徒がヘルメットと棍棒で武装し、もっとも凶悪な流血の暴行を演じた二日午後二度目の襲撃を『赤旗』はどう書いているか。「午後四時前、防衛隊は正当防衛の権利を行使し、バリケードをとりのけ、中国人学生を押し出し」たとだけ書いている(三日付)。そして、四日付には<ホースで水をまいたり、棒でつついたり暴行をつづける在日華僑ら…(二日、日中友好協会本部入口前で)>との説明のついた写真が、真偽正反対の記事に「真実味」をそえるためにのせられている。たしかに、机を無造作に積んだバリケード(?)の向こう側には竹棒(竹やりではない)を持った青年がうつっている。だが、この写真はまぎれもなく、青年たちが自らを防衛しているところを示すものである。自分たちの前に障害物をおいていったい相手を襲撃できるものだろうか。しかも、そのとき、フロアにいた中国人学生は「七・八十人」(『赤旗』七日付)それを取り囲む暴徒は五百名(『自治会真相』)なのである。午後一時半すぎの流血の再発を防ごうとした中国人学生らが自称『日中友好協会』事務所入口前と玄関にバリケードを築いて、わが身を守ることは当然のことである。

 J 「四時前」の襲撃暴行の結果、中国人学生らがどれだけひどい被害を被ったかは前にものべた。ヘルメットと棍棒で武装した暴徒が素手の中国人学生に襲いかかったことは、何よりも『日本と中国』その他にのせられた写真が雄弁に証明している。しかし、『赤旗』はそれに一言半句も触れない。ただ、「正当防衛権を行使」したと繰り返すばかりである。では、かれらのいう「正当防衛権」とはどんなものか。二月十九日付『赤旗』は<反党盲従分子の暴力にたいする断固たる反撃は、正当防衛権の当然の行使である>という悪名高い「主張」を揚げた。しかし、それだけではまだ足らず、中央委法対部長青柳盛雄は<反党盲従分子の暴力には正当防衛を(赤旗紙1967年2月21日付論文)>(『赤旗』二月二十一日)という論文で「話し合い……ではだめで、実力で……圧倒し」、「ひとひねり」にすることを奨励し、「過剰防衛は……刑は軽くされるか免除される」のだから、「なんらの権力もない連中」には「断乎として……対処」せよ、と破廉恥きわまる「法律家ぶり」を披露した。権力をもった連中には遠慮するが、権力をもたないものとは実力闘争を奨励するような共産党がどこの世界にあるだろう。『赤旗』が奨励し、法対部長が督戦しているのだから、「党員」たるもの、「なにをなすべきか」があきらかになったというものだ。その直接の結果が、これである。こんなデタラメなことを、『共産党』を名のり『日中友好協会』を名のる連中が(6)、ほんとうにやったと信じられるだろうか。しかし、信じられないことが日本の東京で起ったのである。


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  四 『赤旗』のいわゆる襲撃の論拠

  ―五日付以降の狼狽ぶり―

 『赤旗』は、二日付、三日付と一方的に中国人学生らの「襲撃」を書きまくった。しかも四日付では、二日午後のことはむしろサラリと書きながし、特に「事件に憤激」した「各界の談話」などをのせていた。かたわら、「協会本部」は「防衛」され、「事務局、日常業務はじめる」などの記事をのせ、ことは落着したかのようであった。数十万の『赤旗』の「宣伝力」に対する「安堵感」「勝利感」がそこにはみられた。しかし、共産党は人民の立場を離れるとその力を失う。日本人民は決して、それが『共産党』という名称を掲げているからというようなことではだまされない。「言葉ではなく、行動を見よ。」これが人民の判断の基準であり、共産主義者の判断の基準である。「四日朝、国鉄飯田橋駅前で」「日本共産党が在日華僑学生らを襲撃した」との「ビラ」がまかれた(五日付)。「善隣学生会館事件」について共産党と正反対の見解、つまり『共産党』によって「正当防衛権を行使」されて重傷者七名(うち危篤二名)を含んで二十数名の重軽傷者を出した中国人学生らの宣伝が開始されたのである。『赤旗』は、あらためて、自分たちの天をもおそれぬ罪行の客観的意義について思い知らされた。しかし、『赤旗』は自己批判をするのではなく、いっさいほおかぶりでこの難関をすりぬけようとした。五日付や八日付けでは、<在日華僑学生らのデマ宣伝を糾弾する>(五日付)、<在日華僑学生と対外盲従分子の暴力行為を許さない>(八日付)と称して、「事件」が「一階でおこった」とか、「襲撃」が「長期にわたって計画されたものである」とか書きたてて読者の眼をくらませようとした。『赤旗』はほんとうに「デマ」を「糾弾」できているんだろうか。いやできていない。

 @ まず、「一階」の問題。『赤旗』は、事件が華僑学生の寝室のある三、四階でなく、一階の玄関や自称『日中友好協会』の事務所前で起こったことを、かれらが「襲撃」されたと称する唯一最大の論拠にしている。しかし、『赤旗』は一貫して善隣学生会館が前にのべたような特殊な性質の建物であることをかくしている。はじめに述べたように、この建物の主人は中国人学生であり、かれらが壁新聞を一階に張るのも当然なら、またそれが破られ、学生の一人が殴打されたのも一階である。主人が間借り人に抗議したり、その暴行を防ぐのに、寝室ですべてを処理しなければならないという道理がどこにあろう。暴徒を防ぐのに、その侵入口で防ぐのがもっとも効果的だというのは常識ではなかろうか。これは中国人学生の正当な抗議行動を暴力で圧殺したことをゴマカスためにもちだされたデタラメな論拠である。さらにいえば、一階で「事件」が「おこった」からといって、非道きわまる流血の暴行が許されるとでもいうのだろうか。

 A つぎに「長期にわたって計画された」「襲撃」の問題である。壁新聞や『造反団ニュース』が「一ヶ月も前から」「襲撃をよびかけて」いるのが証拠だという。そこで五日付では『造反団ニュース』を引用するのだが、この引用がデタラメである。『ニュース』では、正統派の幹部に対して『大胆に会員と人民大衆に訴え、奪還闘争の先頭になぜ立たないのか(7)」と書かれているものを五日付は前半分を故意に削って「奪還闘争の先頭に立て」(五日付)というふうに引用し、それを計画的「襲撃」の証拠だと強弁しているのである。わざわざ「会員と人民大衆に訴え」の部分を削り、すなわち会員と人民の世論によって反中国分子を孤立させ、事務所を真の友好の事務所として取り戻そうという本来の趣旨をねじまげ、直接の暴力的奪還をたくらんだかのごとく印象づけようとしているのである。そればかりではない。『赤旗』(三月四日付)はANS(『ANS国際ニュース』)に「ニセの『日中友好協会』本部の退去を求める中国人学生の正義の闘争」と書いてあるからといって、それまで「計画的に襲撃したことを裏書するもの」(四日付)というに至っては、もはやなにをかいわんやである。いまや『共産党』は闘争といえば、ただちに暴力闘争だと思ってちぢみ上がるのであろうか。

 B 第三に、『赤旗』が「襲撃」の証拠として提出するものは、いわゆる「凶器」である。自称『日中友好協会』事務局長橋爪利次は、九日に記者会見をして、いわゆる「凶器を公開」した。この凶器なるものは、三日付にも、四日付にも、五日、六日、七日、八日付にも、『赤旗』の事実経過の報道には一度も現われたことのない代物である。われわれは、そこに松川事件などでの警察のデッチあげの手口を連想せざるをえないが、「上手の手」からも水はもれる。『赤旗』十日付は、<華僑学生と盲従分子の計画的襲撃の証拠は歴然>とのギョウギョウしい見出しのもとに、一面トップでそれを「報道」した。そして、写真には御丁寧にも「長机などを解体した角材の束、かれらはこれをふるって襲いかかった」との説明までつけた。十一日付の七面でもデカデカと写真をのせて書きたてているが、その記事には、なんと「これらの物品は……五十六種。華僑学生らが二日午後会館のあちこちから手当たり次第に持ち出して協会本部入口の通行を妨害するためトビラのすぐ前にきずきあげたバリケードです、」と種あかしがしてあるのだ。いったい『赤旗』は何を考え、何をしゃべっているのだろうか。

 C 最後に「不法な監禁」であるが、これについてはすでに随所で触れたので、ここでは自称『日中友好協会』の入口前と玄関に「バリケード」の築かれていたのは時間にして二時間ぐらいなものだったこと、「事務所」の裏口から地下(食堂などのある)に出、会館の裏口に出る通路があるが、ここがふさがれたという記述は『赤旗』にはただの一行もなく、「出入りは自由であった」(『日本と中国』(四月三日特集号)と判断して間違いないことを指摘しておく。ついでにいえばその地下には便所もちゃんと備わっているのである。

◇    ◇    ◇    ◇  

 『赤旗』の言う「襲撃」の証拠とはザッとこんなものである。こんなに簡単に尻の割れる証拠をならべているだけでは、いかにも心もとない。そこで、『赤旗』は三十万の「党」勢を利用して、周辺から雰囲気を盛り上げることで「襲撃」を読者に信じこませようとする。『赤旗』に登場する各界の人士は、やれ「正当防衛」だの、やれ「民主運動にたいする不当な干渉も排除」だのということを抽象的に論じて『共産党』が直接的に責任を負わなければならないこの排外主義暴行に対する援護射撃を試みている。だが、それはむなしい試みである。だから、かれらが少しでも事実に触れると、平気でデタラメを言いはじめる。一例をあげよう。『赤旗』六日付の詩人土井大助の<襲撃とたたかう人びととともに>では、「この三日間、バリケードで入口をふさぎ、用便にも食事にも通らせない」などと書いている。この詩人は『赤旗』さえロクに読んでいないらしい。しかし、それは詩人ばかりではないらしい。文化部吉原次郎は<三十五人の「声明」に反論する――「善隣学生会館襲撃事件」について>と題する一文で「まる二日間も一室に監禁され」(十五日付)とヌケヌケと書いているし、また立木洋や川崎巳三郎も考えつくかぎりの悪罵を中島健蔵、黒田寿男氏にあびせながら「二日間も監禁され」(十五、十六日付)などと書いているではないか。毛沢東に対する尊敬と天皇崇拝を混同するような低級な哲学者柳田謙十郎の「ひとことでもうそを言うような人を誰が信用するでしょうか?」という言葉がピッタリあてはまるのである(十四日付<はげしい怒りでたたかいに――華僑学生らの二つの文書を読んで>)。

 『赤旗』が書きなぐれば書きなぐるほど、事態は混乱し、読者は当惑するばかりである。しかし、立場を失い、事実に叛いた『赤旗』に何が残っていよう。活字の洪水で血債が償えるなどと考えるものはよほど頭がおかしいのでなければ、ウソを平気で押しつけられるファシストだけである。しかしなんとかせねばならない。そこでもっと雰囲気を盛り上げるために『日中友好協会本部襲撃事件の真相を聞く文化人の集会世話人代表間島三樹夫』なる人物が発行責任者となっている<日中友好協会本部襲撃事件の真相――『文化人の集い』での報告から>(三月二十日付)という新聞四頁の印刷物が発行された。そこではついに、一面トップにヘルメットと棍棒で武装した日共暴徒集団が素手で立ち向かう中国人学生らをまさに襲撃しつつある写真をのせ、それが一階における襲撃だから正当防衛だと強弁している。こうして相手側の写真をも使うことによって一見「真相」らしくよそおって、読者を自分の土俵にさそいこもうとする腐心のあとはよくわかるが、しかし、その棍棒によってどれだけ中国人学生らの血が流されたかにはいっさい口をつぐんでいる。もちろん、そこは絶対に書けないことなのである。頭かくして尻かくさず、とはまさにこのような人々のためにつくられた言葉である。日本人民は、「文化人」の肩書きを信用するのではなく、かれらのいっていることの内容を問題にするのだ、ということをこれらの人物はわすれているのだろうか。


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  五 日共指導部の修正主義路線とその二、三のあらわれ

 『赤旗』のウソはキリがない。しかし、もうそれはここらで一まずおいて、なぜ『赤旗』がこのようなデタラメを連日にわたって書きなぐらねばならないのか、そのデタラメを正当化しようとしてどれだけ修正主義の泥沼に深くはまり込んでしまったかを簡単に見てみよう。

 周知のように、昨年のはじめから、日本共産党中央指導部は反革命・修正主義の正体を公然化し始めた。党員と支持者の眼を世界の革命的闘争からそむけさせ、米日反動の意を迎えるために、没階級的観点をあからさまにした「自主独立」なる黒旗が掲げられた。それは最初ソビエト修正主義との統一行動について中国共産党と意見が相違し、中国の「おしつけ」をはね返すためであると説明されていた。しかし、中国のプロレタリア文化大革命が急速に進展していくなかで、中国の文化大革命に反対するものであることが明らかになってきた。党中央は中国の「おしつけ」というデマを、多量に製造して、反中国ムードをかもしだし、その修正主義的転落をおおいかくそうとした日中間の交流は、青年代交流であれ、経済貿易展であれ、ありとあらゆる妨害が加えられたことは、少しく日中友好運動に携わった人なら誰でもご存知のとおりである。さらには中国研究者から文化大革命に関する研究発表の自由まで奪おうとしたのである。

 しかし、頭のなかでいかに否定し、組織的にいかにしめつけようとも、「それでも世界は動く」。「毛・林路線は六ヶ月で崩壊する」といくらいってみても、「人民は歴史を創造していく」。しかし、修正主義者は決して、世界を正しく認識できないし、また自己批判をしようとしない。世界と日本の革命に背を向けたことから生じた諸々の困難を党中央は反中国活動の強化によって切り抜ける道をえらんだ。日中友好協会は分裂を余儀なくされた。善隣学生会館に残留した『本部』は、「日中友好」の旗こそ掲げていたが、かれらのしたことは党中央の反中国路線を忠実に実行することでしかなかった。それを自称『日中友好協会』橋爪事務局長の口を借りていえば、「毛林派は少数派であり、中国の情勢もそのうちに正常化するであろう」という見通しのもとに「将来の中国との友好を考えて準備し活動してゆく」(『朝日ジャーナル』三月二十六日号)ということになる。つまり、現在進行中の文化大革命を行なっている中国人民との友好はしないというのである。このような「友好協会」がどこにあるだろうか。日本共産党中央や善隣学生会館に居すわっている『日中友好協会本部』なるものは、日中両国人民の友好連帯の基礎を自分の手で否定したのである。これは、ひとえに党中央が野本の革命を裏切り、したがって中国の革命に反対し、マルクス=レーニン主義の原則にそむいたことの直接の結果である。日中両国人民の、さらには世界人民の国際的統一的任務に背を向け「日本人の党」…などとデタラメを吹聴しているようなものにはどのような運命が待っているか、第二インターの歴史を振り返るまでもないだろう。

 このような『日中友好協会本部』が善隣学生会館に居すわっていることに対して、真に日中友好を願う中国人学生らはかれらに「でていく」よう壁新聞で要求した。これは正当な要求である。しかし、かれらは出ていこうとしない。というより出てゆけないのである。なぜなら、「日中友好」の旗だけを掲げているかれらのその存在基盤は、ただ協会分裂のさいにもとからあった事務所に居すわることができたというその一点にのみある。これまで失えば、あとにはそのニセの「日中友好」、真の「非友好」をおおいかくす最大のベールをなくすことになるのだから。だから、かれらは中国人学生の要求闘争を「襲撃」とデッチあげねばならず、またかれらの流血の暴行をひたかくしにして「正当防衛」だと強弁せねばならないのである。

 かれらは立場、方針において誤っているばかりでなく、その行動でも誤った。そのあやまちを正当化しようとして、ウソを重ねてきたことは前にみたとおりであるが、それが思想的にいかに顕在化しつつあるかを簡単に見てみよう。

 『赤旗』は、中国人学生の自称『日中友好協会』の退去要求を不当だといいくるめるために、善隣学生会館は「財団法人善隣学生会館」の「所有」であるなどといっている(8)。確かに現在の法関係ではそうである。しかし、これは事物の現象面であって、本質ではない。政治的、歴史的、道義的にはあくまでも会館は中華人民共和国のものである。政治的、歴史的、道義的立場を忘れてブルジョア法関係に根拠を求める共産党がどこにあろう。このことは要するにかれらが私党の利益のためには日本人民の立場、国際主義の精神をいつでも投げ捨てて、どんないいかげんなものにでもとびつくものであることを、ここでもまたバクロしただけである。そして、「正規の契約」を唯一のよりどころにしていたかれらは、会館理事会がかれらを「加害者である」と認め(9)、十日「立退きをもとめ」るや、それを「すべて無効である」(十一日付)などとわけのわからぬことをいい始めるのである。

 また、ブルジョア新聞の「折り込み広告」の問題がある。日本国際貿易促進協会のつくったこの問題についての『事件の真相』の折り込みを毎日新聞が断わったことを五段ヌキで「報道」し(九日付)、また、翌日以後にも同様の「報道」がされているが、「政治的事件は折り込みをしない」(九日付)という理由で断わったようなことを何よりも政治を重んじなければならない『共産党』の機関紙がデカデカと『報道』しているとはいったいどういうことなのだろう。政治的な問題にはまき込まれたくないという風潮を『共産党』が先頭に立っておし広めていこうということなのだろうか。

 さらにもっとひどいのは、危篤者まで出たケガ人に中国紅十字会と中国人民救済総会から約百五十万円の見舞金が送られてきたことに対して。「外国から軍資金の援助がきている」(十日付)などと破廉恥きわまる悪罵を投げつけていることである。かれらは自分たちがなぐって傷つけたことを恥じないばかりか、負傷者に対する見舞金にまでケチをつけねばおさまらないというのだから、もう、反動派のくだんの手口となんらえらぶことがない地点にまで転落していることを『赤旗』の紙面をかりて自分で広告しているのである。これでは「折り込み広告社」に頼むまでもない。

 しかし、人民の立場を裏切って反動派の立場に転落しただけではブルジョアジーに相手にしてもらえない。裏切り者は必ず支配階級に取り入らねばならない。そのためにもっとも手っとりばやい方法はブルジョアジーの琴線をくすぐることである。日本共産党はそれを真に戦う人民の解放の思想=毛沢東思想とそれにもとづく文化大革命に対するデタラメな誹謗と中傷に求めた。連日紙面を黒くいろどっている<『紅衛兵』さながらの姿><『紅衛兵』ばりの暴力分子><『紅衛兵』のサルマネ><『紅衛兵』ばりの乱行><『紅衛兵』方式直輸入の暴力的方式>等々、枚挙にいとまがない(10)。しかし、「紅衛兵」だけでは足りない。「紅衛兵」の尊敬する毛主席をやっつけなければ画竜点睛を欠くというものである。そこでかれらは<……壁に毛沢東肖像画などをはってすわりこんでいる番兵>(八日付写真説明)だとか、<許せぬ『紅衛兵』ばりの乱行>という大見出しの下に御丁寧にも毛主席の肖像をいれた写真を掲げてみたり(十日付)、さらにはある婦人労働者の言として「『毛沢東語録』には暴力をふるっても悪くないと書いてあるそうですが、最近のようなムチャクチャな暴力行為をほめるのなら日本人から支持されませんね」(十日付)というような談話をのせて溜飲をさげている。こんないいかげんな毛沢東思想の攻撃の仕方では、自分たちの思想水準の低さを露呈するだけだということさえも『赤旗』は気付かないのであろうか。そしてもうここまで来たら落ちるところまで落ちたのだから当然であろうが、中国人学生らを描写して、「等身大の毛沢東肖像のそばで『毛沢東語録』を唱和し、気勢をもりあげるのに躍起となっている」(六日付)だとか、「気違いじみた目つき」をしている(十日付)だとかいって、自らの心の空虚さをまぎらそうとする。もう、『赤旗』紙上は、この問題だけに限ってみても思想的腐敗の相当の進行ぶりを示しているが、もちろんそれは部分的な問題ではない。

 そして、最後の思想的というより、むしろ政治的にきわめて重要な意味をもっているのだが、廖承志事務所孫平化首席代表に対する『赤旗』の書きぶりにはとりわけ注意せねばならない。三日付では、孫代表が、三月二日の「午後四時半ごろ現場に」「姿を現してい」たと、わざわざ指摘しているかと思えば、ANSの報道を論評して「二日夜…『負傷した華僑学生を見舞いに』ということで『会館を訪れた』」(四日付)などいかにも意味ありげに強調している。これが何を意味しているは無署名論文<在日華僑らの襲撃事件について、北京放送などのわが党と日中友好運動にたいする攻撃に反論する>(十五日付)にいたって非常に明白になる。そこでは、「暴徒とその一味は廖承志事務所の孫平化代表の指揮のもとに、…三月二日の事件にしぼって、徹底的に『日共修正主義分子』を攻撃しようと申し合わせたという」と述べている。『党』中央が何をねらっているかはもはや明白である。孫首席代表が政治活動をしているぞ、と自民党政府に申し出て、孫首席代表を追い返し、LT貿易断絶、日中関係全面断絶をねらっているのである。今や『党』は錯乱して、自民党政府が日中交流を断絶してくれれば自分たちの窮情が打開されるとでも考えているかのようである。だが、もしそのようなことが起こったとしても、それは修正主義者がいかに反動派に奉仕したかを天下に向かって広告するだけであり、反帝は必ず反修でなければならないということを日本的経験で世界の人民に教えてくれるだけである。


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  六 おわりに

 以上、きわめて簡単ながら、『赤旗』がいかにデタラメの上にデタラメを重ねているかを見てきた。『赤旗』の矛盾をすみずみまで指摘し正そうとすれば、レーニンが常にいったように彼らの費やした原稿用紙の十倍の量が必要である。しかし、いまそこまでのことは必要ではない。最後に簡単に、この事件のもつ歴史的意義をみて、この稿の筆をおこう。

 日本「共産党」修正主義指導部に指揮されたこの流血の暴行は、右翼の行なった長崎国旗事件をはるかにこえる大不祥事である。それは日中友好運動に対する破壊行為であり、日中両国人民に対する暴力的攻撃である。国家権力による侵略戦争を除けば、日本人が中国人に集団的に暴行を加えたなどということは、いまだかつてない。そのような卑劣な暴行は、排外主義ファシストのみのよくなしうることであり、歴史に対するあくどい挑戦である。それは日中友好運動のみならず、世界の人民の解放闘争に刃向かい、日本人民の革命的伝統を一挙にくつがえそうとする犯罪行為であり、まぎれもなく腹黒い陰謀である。

 では、日共修正主義指導部は、中国人学生の「襲撃」をデッチあげ、流血の暴行を演じることによって、何を得ようとしたのであろうか。

 まず第一に、それは文化大革命を遂行しつつある中国に反対する、修正主義者の全世界的な反中国大合唱の一環に加わろうとしたのである。この東京での凶行を最も喜んだものは、おそらくモスクワの修正主義者であった。国家権力をもつ修正主義者も、もたない修正主義者も一緒になって中国人学生を殴打し、負傷させている。そして中国人学生たちが「紅衛兵のように乱暴だ」と必死になって宣伝している。かれらがねらっているのは、こうして帝国主義に取り入ることと、人民大衆の批判を圧殺することである。日共指導部は、その正真正銘の血まみれの実践において、ソビエト修正主義との「統一行動」を開始しているのである。

 第二に、日共指導部は日中両国人民の努力によって発展させられてきた日中関係の全面的な断絶をねらっている。それは孫平化首席代表に対する態度にも明らかにみてとれる。かれらが推し進めてきた反中国修正主義路線は、いまや全く行き詰まった。人民大衆の批判は高まり、党内の動揺は広がりつつある。中国における「毛林派の崩壊」にかけてきたかれらは、その望みがたえるや日本国内での「中国人学生の乱暴」をデッチあげることによって自らの「正しさ」を証明しようとした。「安保破棄・諸要求貫徹中央実行委員会主催の『日中友好協会の自主的活動を支援する緊急民主団体代表者会議』」は、まだ、華僑学生らの血のりもかわかぬ「二日午後六時半」に開かれ、三月四日には「前途集会」(四日付)まで開かれた。安保破棄=反中国というわけである。日本の民主運動を分裂させ、破壊しているものが、日共中央にほかならないことは、この一事をもってしても明白である。

 第三に、かれらがねらっていることは、ブルジョア排外主義の定着である。かつて帝国主義民族であり、かつ今や復活しつつある帝国主義民族である日本人民のかかえる弱点を矯正するのではなく、それに依拠して自らの私党的利益をはかり、米日反動にこびようというのである。「正当防衛」であるといいさえすればいかなる暴行も「正当」化できるなどというようなバカげたことを信じているのは、軍国主義・帝国主義者だけである。人民は「正当防衛」といわれていることの内容が「正当」であるかどうかを検討することなしには決して、だれのいうことも信用しないであろう。いやしくも『共産党』を名のるものが、「×××××は出ていけ」だとか「ここは日本の領土だ、廖事務所の誰がこようと遠慮することはない、排除せよ」だとかの言を口ばしるということはいったい何を意味するかはあまりにも明白である。日本共産党の「自主独立」の黒旗の真の内容は、まさに排外主義とブルジョア民族主義の先兵の役割である。そのための第一歩がまさに善隣学生会館事件であったのだ。

 しかし、われわれは必ずこの不幸な事件を転じて福となすことができるし、またそうしなければならない。そうしてこそ、「人民、ただ人民だけが歴史を創造する原動力である」という言葉もその輝きをますのである。日中友好を願う全国のみなさん、日共修正主義指導部のこの陰謀を徹底的にあばきだし、毛沢東思想に導かれて文化大革命を勝利のうちに遂行しつつある中国人民との友好連帯をいっそう強固にし、発展させようではないか。

 日中両国人民の戦闘的友情万歳!

 日中友好・交流のいっそうの発展万歳!


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[注]

(1) 三月二日付以降の『赤旗』、および三月十二日付『赤旗』日曜版、同日付『赤旗』号外。

(2) 謝罪文の全文は次のとおり。「日中友好協会の者です。私が日中友好協会を代表します。本日(二月二十八日)夜十一時半に私は次のことを認めます。日中友好協会の酒を飲んできて、彭君(寮生)と壁新聞を破ったことについて問答をやっている時、某日中友好協会の人が、彭君に殴りかかった件について責任者(小山本部勤務)が暴力行為について責任をとるとともに、ここに謝罪する 小山」

(3) なお、詳しく知られたい方は週刊『日本と中国』三月十三日付緊急特報(以下、『日本と中国』と略称)、善隣学生会館中国留日学生後楽寮自治会『日共修正主義グループの華僑青年に対する襲撃事件の真相』(以下『自治会真相』と略称)などをみられたい。なお引用文につけた傍点(当ホームページではすべて太字に置き換えた。編者注)はすべて引用者のもの。以下も同じ。

(4) さらにいえば、「午後零時ごろ、機動隊は事務所が監禁状態かどうかをしらべ、「バリケードが内側からきずかれている事実を確認」した。(『日本と中国』)

(5) なお、森下幸雄の負傷は『赤旗』が常に中国人学生の暴行の「証拠」としてあげるものである。しかし、『毎日新聞』によればケガの程度は「一週間」(二日朝刊)、そして『日本と中国』によれば、そのケガも水にぬれた廊下でみずからすべってころんだ」からである。

(6) 自称『日中友好協会』の規約には、協会の目的のひとつとして「在日華僑との提携」をうたっている。ヘルメットと棍棒による「提携」、それがその実態だったのか。

(7) 『赤旗』十三日付けには証拠資料として、全文が掲載されている。しかし、日曜版にしろ記事の中に引用されるものは前半分を故意に削っている。

(8) 十二日付『赤旗』日曜版などは、記事で、「善隣会館」と称し、故意に“学生”の二字をぬいて、中国人学生の「所有でない」ことを印象づけようとヘタな細工をしている。

(9) 会館理事会は三日、「日共修正主義グループが暴力をふるった加害者であることを認め、」九日には、「ニセ『日中友好協会』にいる連中は暴力団であり、これを退去させるために会館は努力する』ことを決定したという。(善隣学生会館後楽寮防衛闘争委員会『闘争速報』第四号)

(10) 『赤旗』本紙には、こういういい方はやや少ないが、十二日付日曜版では二面だけで暴力の修飾語としてつかういい方は七回を数え、さらに号外では二面だけで、「紅衛兵」という語が十八回も出てくる有様である。『赤旗』が何をねらっているかは明白であろう。

(補注) 原文で資料として用いた『赤旗』は、京都地方で配布された版の日付によったが、印刷するにあたった、読者の便宜を考え、日付を『赤旗』縮刷版によって改めた。ただし、十二頁の*印を付した部分だけは、原文のままである。


いわゆる「善隣学生会館事件」を批評する
―『赤旗』のデマ宣伝と日共指導部の修正主義的本質―
1967年5月15日
発行/善隣学生会館後楽寮防衛闘争委員会
文京区後楽1-5-3


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