以下の資料は、1967年3月7日付「赤旗」紙の3面に掲載された 在日華僑学生と対外盲従分子らの日中友好協会襲撃の真相 という記事です。2月28日から3月2日にかけての流血事件の5日後に書かれたこの赤旗紙の記事は、日本共産党側の主張する事件の事実関係を知る資料として、非常に重要なものだと思います。縦書きを横書きに改めました。本ページの写真は、赤旗紙の同記事に掲載されたものですが、縮刷版のコピーから取り出した画像なので、非常に不鮮明です。それを補うために、一部、文字を編集し挿入しました。
2000年8月15日 猛獣文士


在日華僑学生と
対外盲従分子らの
日中友好協会襲撃の真相


許せぬ民主団体への干渉と暴力
デマ宣伝で事実は破れない


日中友好協会本部事務所(東京都文京区後楽善隣会館内)を襲撃した在日華僑学生や日中友好協会からの脱走分子らは、こともあろうに自分らが「襲撃された」のだと称し、日本共産党や日中友好協会を「反中国殺人鬼」だとか「修正主義反革命暴力集団」だとか逆宣伝する卑劣なやり口にでてきました。いったい、だれが暴力的襲撃をやった張本人なのか、――以下、動かせない証拠によってかれらのデマと暴力の手口を一つずつあばいてみましょう。


「善隣会館」とはどういうものか?

在日華僑青年らは、善隣会館が自分たちの「所有物」であるかのようにいって、日中友好協会に「出て行け!」と叫んでいますが、これはまったくのでたらめです。

同会館は、戦前の昭和十三年、日本軍国主義者のかいらい政府だった「満州国」からの留学生を泊めるため「財団法人満州国留学生会館」としてつくられたものです。戦後は「財団法人善隣学生会館」となって、同財団が所有、管理、運営し、三、四階を在日華僑学生の寮として使わせ、一、ニ階を日中関係の団体や商社の事務所に貸しています。昭和三十九年、外務省などが在日華僑学生を追いだそうとはかったとき、共産党は先頭にたってこれとたたかい、在日華僑学生の生活と権利を守りました。

日中友好協会は同財団理事会と正規の契約を結んで昭和三十九年四月二十一日以来今日まで、現在本部事務所のある室を賃借し、それ以来今日まで同じ事務所で、同じ看板をかかげて、一貫して不変の方針のもとに日本人民の自主、平等の立場にたって日中友好運動をすすめてきています。

ところが、宮崎世民、岩村三千夫、三好一ら対外盲従分子は昨年(1966年編集者)十月二十五日、日中友好協会から一方的に脱走して、東京都新宿区の「みよしビル」に事務所をかまえ、日中友好協会にたいする分裂破壊活動に乗りだしました。このことは、かれら脱走分子が三日記者会見して発表した声明のなかでも、「日中友好運動の妨害勢力となった日共宮本派を排除するため、これまでの事務所であった善隣会館の一室を一時退去せざるを得なかった」といって、みずから認めているところです。「排除するため」「退去」するというのはおかしな話ですが、「退去」というのは「みずからすすんでしりぞき去る」ことで、かれらが自分からでていったことは疑問の余地がありません。そうしておいて、同じ「声明」が、日中友好協会が事務所を「占拠」しているというのですから、だれがみてもこんなつじつまのあわない話はありません。


ことの起こりはなにか?

一ヶ月前から在日華僑学生らの筋のとおらぬ不当な追い出し策動

日中友好協会の方は、ただ、いままでと同じように事務所で仕事を続けていくことだけが目的で、ほかになんの目的もありませんでした。

ところが、同会館に住む在日華僑学生らは昨年十一月以来、会館の正面玄関入口の廊下や、はては日中友好協会の事務所の前にまで、ベタベタと壁新聞(かれらは「紅衛兵」ばりに「大字報」とよんでいる)をはりだしました(別図参照)。それには「妨害『日中友好』とっとっと立ち去れ、反中国宮本集団の出先協会すぐ出ろ」とか「汚ならしいウソつきの卑劣漢、人民の敵、偽『日中友好協会』さっさと出てゆけ!!」とか、公然と日中友好協会を追いだそうとする扇動があらわれていました(写真参照)。

一方、日中友好協会からの脱走分子のなかに、「紅衛兵」そのままの「造反団」と称する組織ができ、「造反団ニュース」というのを発行しはじめました。そこでは、宮崎、三好ら日中友好協会脱走分子の幹部を「実権派」だと非難し、その理由として「善隣学生会館内の日中友好協会本部を放棄した」ということをあげています。こうして三好らをつきあげ、すでに一ヶ月も前から「在日華僑青年は同会館をとりもどすために立ち上がっている。きみたちはなにをしているか。大胆に奪還闘争の先頭に立て」(「造反団ニュース」第一号)と、事務所「奪還闘争」を扇動しています。

これをみれば、ただ従来通り正常に仕事を続けたいという日中友好協会にたいして、在日華僑学生や脱走分子らが早くから「たたきだせ」「奪還闘争」を準備してきたことは一目りょう然です。

事件後の「亜細亜通信」(ANS)東京(三月四日号)も、「日中友好のセンターである善隣学生会館からニセの『日中友好協会』本部の退去を求める中国人学生の正義の闘争にたいし、『日本共産党』指導部に指導され、そそのかされた反中国妨害分子は、さまざまな卑劣な妨害をおこなってきた……」と書いて「奪還闘争」の意図をかくそうともしていません。

また、三月二日の「中国人留日学生後楽寮自治会」の「声明」は「『日本共産党』指導下にある暴力団を会館から排除するまで断固としてたたかう」といっており、「ANS東京」によると三月一日夜同会館内でおこなわれた在日華僑学生と対外盲従分子の集会では「われわれは断固たたかい、おまえたち(日中友好協会)をたたき出すまで、勝利するまでたたかう」と「宣誓」しています。

これらは、在日華僑学生、対外盲従分子らの日中友好協会襲撃の目的がどこにあったかを、みずから裏書きしたものです。


問題の本質はどこにあるのか?

「紅衛兵」方式直輸入の暴力から、日本の民主運動を守ろう

日中友好協会本部事務所入口にバリケードを築き、その上から凶器をふるい、ホースで水をかけて暴行をはたらく日中友好協会脱走分子と在日華僑学生
竹やりで突かれ手術を受ける支持団体員(二日、代々木病院で)

以上の経過をみれば、在日華僑学生や脱走分子らがどんなにデマをとばそうとも、問題の本質はあきらかです。

かれらは事件のおこる前から、「修正主義日共指導部」とか「反中国のニセ日中友好協会」とか毒づいていましたが、事件後はさらに「『日共』修正主義グループの殺人行為を糾弾する」「『日共』修正主義集団の反中国策動を断固糾弾する」などの横幕、たれ幕を、自分のものでもない善隣会館のまわりにはりめぐらし、意図的に日本共産党攻撃に結びつけようとしています。

これに歩調をあわせて、社会党黒田寿男や高野実、兼(?)田富太郎、大塚有章らは、「長崎国旗事件と同じ国辱事件」だとか、「排外主義をあおった」とか、「安保破棄中央委員会が中国にほこ先をむけた」とか、意識的に日本共産党と民主団体にたいするデマ攻撃にでてきています。

しかし、かれらがいう「修正主義」「反中国」という基準は、なんでしょうか。かれらは善隣会館四階から「偉大な毛沢東思想万才!」のたれ幕をたらし、正面玄関をはいった壁に毛沢東の写真を飾ってその前に番兵がついています。また、四日付ANS東京も「毛主席語録のなかから『決意を固め……』『世界人民は…』その他の言葉を声たからかに唱和し、毛沢東思想にしたがい、それを武器として、『日本共産党』指導部が組織したこのファッショ的暴行とあくまでたたかう革命的気概を示した」と書いています。

外国、特定の指導者の言説に無条件に盲従するかどうかを、「修正主義」かどうか、「マルクス・レーニン主義」かどうか、の基準にすることは勝手ですが、それを日本にもちこみ、自分らのいうことに従わないものはすべて「修正主義」だ「反中国」だというようなことを許しておくわけにはいきません。さらに「造反団ニュース」や壁新聞が書いているように、日中友好協会の事務所を奪還するかどうかが、「実権派」かどうかをみわける基準にするようなことが、どうして許せるでしょうか。このような「紅衛兵」方式直輸入の日本の民主団体と民主運動にたいする暴力的襲撃にたいしては、全民主勢力が団結をかため、断固として正当防衛の権利を行使して、ふたばのうちに粉砕してしまわなければなりません。


だれが襲撃したのか?

事件がどこで起きたかをみれば襲撃したのはだれであるか明白

在日華僑学生や対外盲従分子らは、卑劣にも自分らが「襲撃された」のだというデマをとばし、負傷した写真などを使って、事実を知らない人たちの同情を買おうとやっきになっています。

しかし、だれがだれを襲撃したのかは、「事件」がどこでおこったかをみれば明らかです。

すでに本紙がくりかえし明らかにしているように、同会館内の華僑学生の寮とその付属設備は、いずれも三、四階にあります。一方、日中友好協会事務所は一階の正面入口から左へはいった十数メートル奥の突当たりにあります。(写真参照)。ところが、衝突事件は一階の、しかも主として日中友好協会本部前でおこったのです。(図参照)。華僑学生のいる三、四階はおろかニ階へも、二月二十八日以来だれもあがったものはいないのです。この一事をみただけでも、だれがだれを襲撃したかは、だれの目にも明白ではありませんか。華僑学生らが四階からおりてきて、一階の日中友好協会を襲ったのです。

脱走派の機関紙「日本と中国」などが「襲撃現場」などと称してセンセーショナルにのせている写真そのものが、なによりの証拠で、これはいずれも協会本部入口前でのものです。

四日付ANS東京は、「善隣会館の玄関内側と、同会館内のニセ『日中友好協会』事務所のドアの外に机やイスを積み重ねて、彼らがさらに攻撃に出てくるのを防いだ」と書いて、みずからこれを裏書しています。

三階、四階への通路にバリケードを築いたというのならともかく、一階のひとの事務所の入口や玄関入口へバリケードを築いておいて、それを「防衛のため」などというものがどこの世界にあるでしょうか。事態は明白です。華僑学生らが日中友好協会事務所に乱入しようとし、これを阻止されると事務所入口にバリケードを築いて協会員を内部に閉じこめ、さらに玄関入口にまでバリケードを築いて協会への出入りを阻止したのです。

華僑学生らは二日付の「声明」で、「暴徒五百数十名が大挙してわれわれの会館を包囲し、深夜三時頃までわれわれの学業生活をおびやかし、集団脅迫を行なった」などといって、知らない人の同情を買おうとしていますが、いまにいたるも毎晩夜中まで、「ニセ日中友好協会は出ていけ」と唱和したり、「東京―北京」や「大海の航行はカジとりが頼り」という歌を合唱したりして騒いでいるのは、いったいだれでしょうか。これは現場へ行ってみればすぐわかることです。

襲撃前から在日華僑学生がはりめぐらした壁新聞。かれらの襲撃が計画的なものであったことがよくわかる
《左の壁新聞》
妨…
とっとと…
反中国宮本集団の
出先協会今すぐ出ろ
■誌を読まない日中友好
協会の…友好の意味…
字引で友好と
いう意味を引いてみろ
《中の壁新聞》
燃やしたの…
本当に君は■日中友好…
と胸をはっていえるか?偽日中友好…
■中国の実権派に期待し、毛主席をののしら
なかったと正々堂々といえるか?
汚らしいウソつきの卑劣漢人民の敵
偽「日中友好協会」さっさと出てゆけ!
《右の壁新聞》
日中両国人民の
共同文化財産
を返せ!
とっとと出て行け!


だれが先に手を出したのか?

制止をきかず先に暴力に訴えてきたのは在日華僑学生である

二月二十八日(火) 午後十一時ごろ、同会館三、四階に住む華僑学生十五、六人が日中友好協会本部に押しかけ、かれらがはった「ニセ日中友好協会は即刻会館から出ていけ」という壁新聞を、協会事務局員が破ったといいがかりをつけ、本部内に押し入ろうとしました。本部にいあわせた事務局員五人のうち、小山慎平氏が廊下へでて、乱暴はやめなさい、ドアに手をかけるのはやめなさい」といってとめようとしましたが、かれらは、ドアをたたき、入口をこじあけて侵入しようとしました。残った四人は必死になってドアをおさえ、侵入を防ぎました。するとかれらはドアの外にいた小山氏をとりかこみ、なぐる、けるの暴行を加え、メガネをたたきこわし、三階のかれらの部屋につれ込もうとしました。

急をきいてかけつけた事務局員や民主団体の人たちを、かれらは正面玄関でとりかこみ、「修正主義者」とわめいたり、写真をとるなどの妨害を加えました。この現場を写真にとろうとした協会会員をかれらは襲い、なぐる、けるの暴行を加えたうえ、カメラとストロボをこわしてしまいました。

その後も東京華僑総会の勤務員らも加わった約三十人が、「ここから出ていけ」とどなりながら、午前二時半ごろまで協会本部入口のドアをたたきつづけました。かれらは会館正面入口をはいったところにストーブとイスを持ちだし、翌一日明け方までがんばって、便所への通行を妨害しつづけました。

三月一日(水) 午前十時ごろから三回にわたって協会本部に、「おれは四階に住む中国人だが、反中国分子はいのちをかけてもこの会館から追いだしてやる」という電話がかかってきていました。午後六時ごろから、華僑学生や日中友好協会からの脱走分子ら約百人が一階正面入口を入ったところで集会を開き、「日中友好協会はすぐ会館をでていけ」という決議をしたあと、六時半ごろからふたたび協会本部入口に押しよせ、「追いだせ」と叫んで侵入をはかり、カギをこわしました。協会本部事務局員らが木箱をつむなどして侵入を防ぐと、協会本部入口前にバリケードをつくり、協会本部内にいた支援の民主団体をふくむ約六十人を完全に監禁状態にしてしまいました。午後八時半から翌朝午前一時半ごろまで、「修太郎出ていけ」などと叫びながら、部屋の外にある電灯のスイッチを切ったり、ときどきつけてはまた切るという卑劣なやり方をくりかえしました。そのため、本部内の人たちは食事をとることもできず、便所へいくこともできず、婦人もバケツで用をたさなければならないという悲惨な状態におとし入れられたのです。

三月ニ日(木) 華僑学生や対外盲従分子ら三、四十人は午前七時ごろ、協会本部へはいろうとした民主団体員七人を追って協会本部を三たび襲撃し、スクラムを組んで防ぐ事務局員らにバケツで水をかけたうえ、なぐる、けるの暴行を加えてきました。

このあとかれらは、便所にいこうとした日中友好協会常任理事森下幸雄(三六)に玄関付近でなぐりかかり、右上眼瞼裂傷幅五a深さ八_、皮下組織にまで達する全治三週間の重傷を負わせました。

かれらは午前十一時すぎから一階正面入口をはいったところ(図参照)で、七、八十人が「毛沢東語録」を読みあわせ、なかにはいろうとした協会員や民主団体の人たちに「日共の修正主義は帰れ」などと悪ばをあびせて阻止しました。このとき警察もいっしょになって阻止しつづけました。食事もとれず、便所へもいけない協会本部の人たち約五十人は、午後になると廊下の先まででて、「食事の差し入れをさせろ」「便所にいかせろ」と要求していましたが、午後一時四十五分ごろ、華僑学生や対外盲従分子らは、ニ、三度バケツで水をぶっかけ、鉄棒や角材をもってなぐりかかってきました。協会員や民主団体の人たちが本部の入口までしりぞくと、かれらはかん声をあげて追いかけ、入口ドアのガラスをたたき割ったうえ、日中学院の机や教壇をもちだして、入口前にバリケードを築きはじめました。本部内の人たちがこれを取り除こうとすると、かれらは竹ざおや角材でなぐりかかり、ホースをひいて水をかけ、消火器をもちだして薬品を放射するなど、二時間にわたって暴行のかぎりをつくしました。そのため、十数人が重軽傷を負い、窓から運びだされて代々木病院に入院しました。この間、機動隊は華僑学生の暴行をとめないばかりか、協会本部の防衛にかけつけた数百人を通路上で阻止してなかへいれさせませんでした。

このような言語を絶する暴行にたいして、民主団体が正当防衛の権利を行使するのは当然です。午後四時前、協会本部内の人たちは正当防衛の権利を断固行使し、バリケードをとりのけて華僑学生らを玄関前まで押しだしました。

午後十時すぎ、心配してかけつけた会員の一人全学連中執・都学連副委員長の小向鉄郎君(ニ四)が便所をさがしにでると、これをみつけた華僑学生ら約五十人は小向君に襲いかかり、一階の一室につれ込んで、なぐったり、髪をつかんで引きまわして「三角帽子をかぶせろ」と叫んだり、「自己批判書」にむりやり署名させようとするなど、五時間にわたって監禁し、暴行をくわえました。

裁判所さえこの事実は認めざるを得なかった

三月三日(金) 東京地裁も、正式に会館内事務所を借りている日中友好協会にたいする妨害、暴行の事実を認め、これを排除するために「本部の占有使用妨害排除」の仮処分申請を認めました。このため暴力分子らはこの日は、直接の襲撃には出てきませんでしたが、便所にいくのにいやがらせをするなどの行為がつづき、夜になるとかれらは約二百人を動員し、翌朝午前一時ごろから裏口の階段のドアをこじあけて侵入しようとはかりました。協会本部防衛のため泊まりこんでいた約ニ百人の青年たちがこの侵入をゆるしませんでした。

三月四日(土) 四日以降も、かれらは三、四階に「日共修正主義グループの殺人行為を糾弾する」などのたれ幕や横幕をはって、デマ宣伝をしながら、依然として約二百人を動員し、襲撃の機会をねらっています。

このような、日本の民主団体にたいする凶暴な暴力的襲撃にたいして、安保破棄・諸要求貫徹中央実行委員会は日本の自主的な民主運動をまもるために、各団体によびかけて、四日夜、東京文京区礫川(れきせん)公園で三千五百人による全都集会をひらき、閉会後日中友好協会本部を激励しながらデモ行進しました。

(赤旗1967年3月7日)

[先頭][Home][日本共産党側資料目次]