以下の資料は、1967年2月21日付け「赤旗」第2面の 「反党盲従分子の暴力には正当防衛を」 という記事で、日本共産党中央委員会法規対策部長青柳盛雄氏の署名論文です。この論文は、日本共産党が「対外盲従分子(あるいは彼らのいうトロツキスト)」に対する「実力行使」つまりは暴力的な「反撃」を行う場合の理論的根拠である「正当防衛論」を法律の面から解説しているものと思います。
2000年8月14日 猛獣文士

反党盲従分子の暴力には正当防衛を
日本共産党中央委員会法規対策部長 青柳盛雄

(一)
 反党対外盲従分子どもが、わが党と民主勢力にたいし、暴力をふるいはじめたことは、「赤旗」がしばしば報道しているとおりであって、その凶暴ぶりは目にあまるものがある。これにたいし、われわれが断固として反撃をくわえなければならないことは、「赤旗」の主張が述べているとおりである。かれらは理性を失った連中だから、民主主義も基本的人権も無視して、自分らと意見を異にしている者にたいしては、みさかいなく暴力をふるうという点では、米日反動の走狗(そうく)となっている右翼暴力団と同じである。

 われわれはどう対処したらよいか、党員はもちろん党支持者でも、かれらの暴力を黙って放置しておいてよいとか、かれらの暴力によって怪我(けが)をするようなことがあっても、これをがまんしなければならないとかと考えていない。ただちに断固として反撃をくわえ、これをくいとめるとともに、被害を未然に防止しなければならないと考えている。これはあたりまえのことで、党を支持していない人びとでもそう考えている。

 かれらを説得して暴力をふるわせないようにすることも必要だが、これはそう簡単にできることではないし、なによりもかれらが「頭にきて」暴力をふるっているときに、こちらが冷静に説得しようとしても、かれらはすぐ暴力を思いとどまるものでもない。かれらの頭を冷やすのには、その場で話し合いをしようなどとのんきなことをいっているのではだめで、こちらの実力でかれらの暴力を圧服してしまうことである。それは、大声をあげてかれらをしかりつけその気勢をくじくことも効果的であろうが、ただそれだけでなく、狂犬のように襲いかかってくるのにたいしては、やはりプロレタリアートの実力を発揮して、かれらを「ひとひねり」にしてしまわなければならない。

 このような闘争では、怪我人は双方にでるし、味方も傷つくかもしれないが、闘争である以上、まったく損害をうけないでワンサイドゲームで勝つというわけにはいかない。味方の損害をさけるという立場から、かれらの暴力による侵害を黙視するならば、味方の損害はもっとひどいものになるであろう。

 日本の労働者階級は、ストライキやデモなどにたいする官憲の不当な干渉にたいして、断固これとたたかってきた歴史をもっている。それは正当防衛として無罪をかちとった例もたくさんある。

(二)
 正当防衛という法律概念は、現行法規の規定としては、刑法第三六条につぎのように定められている。

 急迫不正ノ侵害ニ対シ自己又ハ他人ノ権利ヲ防衛スル為メ已ムコトヲ得サルニ出タル行為ハ之ヲ罰セス

 物理的な暴力をふるって、人の身体を傷つけようとしたり、物を破損しようとする行為は、それ自体犯罪行為であって、だれが考えても、この「急迫不正ノ侵害」に該当することはまちがいない。

 このような暴力が自分自身の身体または所有物や占有物にくわえられようとした場合はもちろん、他人の身体または所有物や占有物にたいしてくわえられようとした場合に、即座に断固としてこれをくいとめることができなかったとしたら、憲法で保障されている基本的人権はまもれるものではない。

 その場に、警察官がいてそのような犯罪行為を適法に阻止し、被害をくいとめるならば、それによって人権はまもられるかもしれない。しかし、対外盲従分子がわが党や民主勢力にたいし暴力行為をおこなおうとする場合に、つねに警察官がその場にいてこれを防止するであろうなどと期待するのは非現実的である。かれらが襲撃してきた場合、一一〇番でパトカーをよぶこともできる。しかし、警察官がくるまでの間に、かれらは暴力をふるってその目的を達し逃げてしまうことも考えられる。こうなれば、被害者は完全に後手(ごて)の立場に立たされる。あとになって加害者は罰せられるかも知れないし、損害の賠償をさせられるかも知れない。しかし、それはいわば「残務整理」であって、被害者の人権は完全にまもられたことにはならない。あとからでは被害者はつねに不利である。どうしてもその場で機敏に反撃し、被害が現実に起こらないようにしなければならない。「已ムコトヲ得サル」というのはこのことである。

(三)
 正当防衛の形態としては、相手が武器をもって襲いかかったときでも、こちらは素手(すで)で立ち向かわなければならないというものではない。相手の武器に対抗できる武器を使うことは、人権を確実にまもるうえで必要である。相手の人数よりも多い人数で対抗することもゆるされる。「決闘」のように一対一でなければならないというものではない。味方の数が多いほど正当防衛は確実で効果的である。

 正当防衛というのは、その反撃の結果、相手が傷ついたとしても、それは自業自得であって、傷つけたこちら側には責任はない、罰せられないということである。相手を傷つけないで、やんわりと追い払うというのは、それが可能な場合は、妥当な戦術であろうが、それは正当防衛以前の問題であって、それができないような状態のもとで、やむなく実力で反撃し、相手を傷つける場合に、はじめて正当防衛の問題が起こってくるのである。

 ただ、この場合でも、刑法第三六条の第二項につぎのような規定があることは注意しておく必要がある。

防御ノ程度ヲ超エタル行為ハ情状ニ因リ其刑ヲ減軽又ハ免除スルコトヲ得

 これはいわゆる「過剰防衛」の問題である。すなわち、相手が参ってしまっているのに追い討ちをかけたり、こらしめの目的で、防衛の必要以上の打撃をくわえたりする場合の過剰防衛は一応罰せられることになっているが、刑は軽くされるか免除される。どの程度が過剰といえるかは、具体的な状況で判断されるので、一概にはなんともいえないが、だいたい常識でわかることであって、過剰になりはしないかなどと心配して、適切な反撃をひかえるのでは、正当防衛の権利を行使するというかまえではない。

(四)
 民主陣営のなかで、よく「挑発にのるな」ということばが使われる。それ自体抽象的にはまちがっていないであろう。敵側では味方を弾圧する口実をつくるために、いやがらせや妨害をやって味方を怒らせ反撃するように仕向けてくる。だから、このような敵の陰謀にやすやすとのって弾圧の口実をつくらせないという意味では一応正しい面もある。

 しかし、敵の挑発的行為、不正な人権侵害行為でもすべて反撃しないという「無抵抗主義」が正しいということではない。もしそういうことになれば、敵はいつでも「挑発」というかたちで。勝手放題に、見方の人権を侵害することができることになり、民主的な運動は、暴力の前につぎつぎと後退し、しまいには民主運動それ自体もできないようになるであろう。戦前がそうだったし、戦後でもたとえば公安条例などの弾圧法規を利用した敵の弾圧政策のもとで、民主運動を委縮させようとしている。

 われわれは、トロツキストなどが、「革命的」な言動で、善意の大衆を敵にけしかけていること、それがけっして民主勢力をつよめることではなく、逆に弱める効果をねらっているものであることを知っている。「挑発にのるな」というのは、そういう場合にも必要なことである。

 しかし、このことばを機械的にどんな場合にもあてはめて、適切な反撃をおこなわないとしたら、それは正しくない。たとえば、対外盲従分子が、その頭をいくらか働かせて、わが党や民主勢力を敵権力の不当な弾圧にさらさせようという陰謀をくわだて、みずからの身体を味方の正当防衛による反撃にさらすことを覚悟のうえで、暴力をふるって挑発してきた場合、われわれがその手にのらず、たくみに相手の暴力をかわしてしまうことができればよいが、それが可能でない状況のもとでは、やはり断固として適切な反撃をくわえなければならない。かれらのこのような陰謀は、弾圧機関としめし合わせておこなうおこなう場合もあるだろうし、そうでないとしても弾圧機関はこれを悪用するであろうことは十分予想される。

 しかし、われわれは、いまの日本が南ベトナムや南朝鮮のような状態でないこと、労働者階級をはじめとする民主勢力が一定の民主的力量をもっており、憲法の事実上の改悪をくいとめて、民主主義と人権をまもっているという現状をみる必要がある。弾圧機関といえども、まだ完全には憲法と法律を無視できない状態にある。

 つまり、弾圧機関、とくに裁判所などは、刑法の定めている正当防衛の規定を無視することはできない。対外盲従分子が暴力で味方を襲ってきた場合、われわれが適時に適切な反撃をくわえるという実力行使にでたときに、弾圧機関もそれを正当防衛として、弾圧できないし、またわれわれもそれを許さないであろう。

 だから、われわれは、「事なかれ主義」で、対外盲従分子の大した力もない暴力の前に、「隠忍自重」し、かれらの横暴を放置してはならない。かれらはなんの権力ももっていないし、権威もない連中だから、われわれが断固としてこれに対処するならば、敗退しさることはあきらかである。

(赤旗1967年2月21日)

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