はじめに
中国研究所の中国研究月報1967年3月号の光岡玄の「善隣学生会館流血事件の意味するもの」の全文をこのページで公開します。1960年代後半から1970年代前半にかけて、私が追求し、信じていたもの、ことが何なのかについて、もっとよく理解し納得したいというのは、常々私が思っていることです。その場合の、私にとっての原点が、1967年2月末から3月にかけて発生した善隣学生会館の流血事件です。
中国研究所の雑誌の論文を無断でこのページに公開することには、問題があるかもしれません。問題があると思う方は、メールにてその旨お知らせください。善処します。
このような歴史文書をWEBページ上で公開することの発想は、日中愛好協会(正統)や現代古文書研究会などのWEBページから得たものです。それらのページと同様、このささやかなページが、私と同じような問題意識を持っている人たちの疑問の解明の助けになることを望みます。
また、表示の関係上、傍点を下線に置き換えました。さらに明らかな誤字を一部訂正した部分があります。
2000年7月13日
猛獣文士
2000年9月20日の中国研究所の理事会にもとづき、この論文の掲載を見合わせていましたが、2002年5月22日、光岡玄氏の掲載許可をいただきましたので、掲載を再開しました。
2002年5月22日
猛獣文士
東京の国電(中央線)飯田橋駅のホームから、すぐ目につく中国風の建物が善隣学生会館である。この会館は、昭和10年(1935年)に、当時日本軍国主義のカイライであった”満州国皇帝溥儀”の寄付行為によって設立された「満州国留日学生補導協会」が中国人留学生寮−「満州国留日学生会館」として建設したものである。
当時の中国人(東北出身)留学生は同会館で日本化された満州国高官官吏になるべく"天照皇太神"を拝まされたり、"大和魂"を注入される生活を送ったという。
1945年8月、日本の敗戦を迎えると同会館管理者側は戦犯指名を恐れて解散し、同会館は、「連合国財産」として特殊管理下におかれたが実質的には疎開先から戻った中国人留学生たちの自主管理に当初ゆだねられた。本来ならば当然同会館は中国人民に返還されるべきものだったが、サンフランシスコ条約成立のさい旧外務官僚が主体になって設立された「財団法人善隣学生会館」(守島伍郎理事長)に所有権が引き渡されようとした。そのため同会館が中国財産であるとする主張する中国人学生、在日華僑とのあいだに1952年から1961年(昭和31年(ママ))まで所有権をめぐって紛争がつづいた。この間、警官隊が出動し、中国人学生とそれを支援する日中友好協会、倉石語学講習会生・各労働組合員、日共文京区委員会などともみあいをおこし華僑学生が殴打された事件さえおきたのである。
しかし、翌62年2月、細迫兼光、穂積七郎両代議士らの努力によって和解が成立し、外務省、日中友好協会の立会いの下に、善隣学生会館理事会側と華僑総会側とのあいだに覚書が作られた。その覚書には、つぎの内容の項目が含まれている。
そのほか、日中友好に無関係な団体、企業は会館管理側が立退かせるようにすることなどが、とりきめられた。
また同会館の暫定的解定の過程で、同会館理事会も改組され華僑総会の推選する穂積七郎、中島健蔵、谷川徹三、倉石武四郎の各氏が同会館理事として加わり覚書き方針を進めやすい管理体制が作られた。
この覚書きの趣旨にもとづいて、はじめて倉石語学講習会(1961年)日中文化センター(1964年)日中友好協会本部(1965年)日中学院(1964年)などが同会館1階に移転または新設されたのである。
以上みたように、善隣学生会館30余年の歩みは、近代における不幸な日中関係__日本軍国主義の対中国侵略戦争__をまざまざと反映しており、現在なおその傷痕が深く残っていることを示している。同会館問題の最終的解決は所有権の問題を含めて、過去における日中戦争の後始末がすみ両国の国交回復がなされる日まで延ばされているのである。
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善隣学生会館のこれまでの歴史と現在の趣旨からみて、なによりも日中8億人民の友好と交流に役立つということが、同会館に入居するさいの第1に必要な資格であることはくりかえすまでもない。ところが、日本共産党修正主義グループとその支配下の「日中友好協会」は、その第1に必要とされる資格をみずから欠いていることには口をとじ、ブルジョア法律にもとづく賃貸借契約だけをたてにとって、同会館に居住する資格があると主張している。(『赤旗』67.3.26社説参照)それだけでなく、本来は中国人民に属するものであるが日中国交回復までは未解決となっている所有権の問題まで次のように歪曲した解釈を下している。
「在日華僑学生らは、善隣会館が自分たちの"所有物”であるかのようにいって、日中友好協会に"出て行け!"と叫んでいますがこれはまったくのでたらめです。戦後は”財団法人善隣学生会館”となって同財団が所有、管理、運営し・・・・」(「在日華僑学生と対外盲従分子らの日中友好協会襲撃の真相」『赤旗』67.3.7)
「また華僑学生はこの会館の所有者ではなく、財団法人善隣学生会館が家主さんです」(「日中友好協会」67.3.30発行パンフ外国勢力による干渉と暴力は許せない)
善隣学生会館の歩みと趣旨に反するものであれば、なにものといえども一日たりとも善隣学生会館に居住する資格をもたないし、この意味からいって反中国活動を展開している「日中友好協会」事務局が善隣学生会館から排除されるのは当然であって、かれらに居住権を主張する権利はもともとないのである。
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現在の「日中友好協会」が偽装大衆団体であり、日本共産党修正主義グループの完全支配下にあることはまぎれもない事実である。
したがって、日共修正主義グループのとっている反中国政策はストレートに同協会でも貫徹される仕組みになっている。
日共が機関紙誌で、わが国民の最大関心事の一つである文化大革命や毛沢東思想について無視すれば、「日中友好協会」の機関紙もまた文化大革命と毛沢東思想についてはもちろん、その単語さえ紙面から抹殺して、反動支配層、商業マスコミの反中国宣伝を野放しにした。
さらに日共指導部がいわゆるクチコミを通じて「毛沢東一派はあと6ヶ月持たない。そのあとの新指導部とわれわれは協力しあえる」とか毛林一派の独裁下におこなわれる文化大革命はとんでもないしろもの」といえば、同協会で、鸚返しにこれをくりかえし中国に対する反友好のふんいきを高めることに大童になり、わが国の反動支配層の反中国政策に呼応した。
今年−1967年に入って、日本共産党指導部の中国攻撃がさらに激化するにつれて「日中友好協会」はますますその忠実な助手としてのやくわりをいっそうはたすようになった。
まず「日中友好協会」が音頭をとり、反中国活動に従事している亜細亜通信社労組、日中貿促労組(いずれもそのほとんどが日共党員)などを、こともあろうに善隣学生会館に集めて、反中国活動を堅持するよう激励する集会を開いた(1月16日)。
また、衆議院議員選挙期間中、日共修正主義指導者はますます反中国活動をつよめたが、選挙終盤にはとくに”「紅衛兵」問題を利用した自民党の反共宣伝に答える“ことを口実に中国で行なわれている文化大革命、紅衛兵運動およびその指導理論となっている毛沢東思想をはげしく攻撃した。
野坂参三日共議長の次の談話と大量の号外撒布のために各駅頭に配備された日共党員たちが異口同音に「紅衛兵だんこ反撃」と叫んでいたのは、同党の本質的立場を象徴するものであった。
「中国でおこなってる”文化大革命”や”紅衛兵”の問題については、わが党が日本に社会主義を建設するにあたって、特定の外国のさるまねは絶対にしないということを早くからあきらかにしてきました。わが日本共産党は今後も、どこの外国のさるまねもしないで、前近代的なやりかたとはまったく無縁の、徹底的な民主主義を堅持して、日本人民の解放運動に献身してゆくでしょう」といっている(下線筆者『赤旗』紙1月28日)。中国の文化大革命や紅衛兵運動を「前近代的なやり方」と規定し、それと対置して「徹底的な民主主義を堅持する」という論理は、中国7億人民が革命としてとりくんでいる文化大革命(紅衛兵運動を含む)とその指導理論である毛沢東思想へのアメリカ帝国主義や日本反動支配層の論理と相通ずるものといえよう。
善隣学生会館の「日中友好協会」事務所は、こうした日本共産党修正主義グループの選挙事務所と化していた。そればかりでなく「日中友好協会」は善隣学生会館に居住する華僑学生にたいしても攻撃をしはじめた。かれらの手によって華僑学生の書いた大字報(壁新聞)がやぶられ、「反毛沢東」「反紅衛兵」といった落書きがあちこちに書かれ、華僑学生寮の食堂や文化室に脅迫ビラがなげこまれた(1月29日−30日)
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現日本共産党指導部は、はやくからマルクス・レーニン主義の立場に立つ革命を放棄してきたが、それが修正主義ソ連共産党寄りの傾向と反中共反中国方針を明確に打ち出したために下部党員の眼もしだいに明らかになり、党内外に激しい批判の声がおきた。とりわけ党内に動揺がひろがるや、日共指導部はそれを解決するために革命理論問題についての全党的討議を組織するという方向をとるのではなく、デマをふりまき党員のおくれた意識にのって排外主義をあふることによってその動揺を乗りこえようとしたのである。
そのため、一方では、いわゆる中国に盲従する分子の暴力行為なるものを機関紙『赤旗』を通じて宣伝した。亜細亜通信社労組員に対する暴行事件、日中貿促労組事務所襲撃と同労組員にたいする暴行事件などがその良い例である。その事実無根の虚報ぶりは、いずれも現場にいあわせたものの失笑を買い、真実を知る人の間では赤旗=ウソ旗との評価がひろまったほどである。
もう一方では、数千万にのぼる紅衛兵の一枚の壁しんぶんの主題をはずれた数行の文句や数万にものぼる紅衛兵組織の一組織の機関紙の記事、さらには在日華僑学生の壁しんぶんにさえとびつき『赤旗』の一面トップに長大論文で反撃することによって、中国の文化大革命(紅衛兵運動を含む)や毛沢東思想を読者の排外主義をあふる次限(ママ)で攻撃を加えたのである。中共中央委員会もしくは中共代表団の正式見解の発表ならともかく、一紅衛兵グループの論調を『赤旗』紙がこうしたとりあげ方をしたこと自体はきわめて異例であるが前述の日共指導部の意図するものからみれば、ごく自然といえよう。
さらに見逃せない重要なことは、日本共産党指導部が自からつくりだした「盲従主義者の暴力」と「紅衛兵のテロ」という幻影をよりどころにして、下部党員の敵慨心をあふり、その憎しみを集団暴力のエネルギーにかえ、その鉾先をわが国において、弱い政治的立場にある華僑−華僑学生に向けよう誘導したことである。
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また、日共指導部は下部党員たちに、自らはヘルメットと棍棒で武装しながら、素手の華僑学生を襲撃するという勇気と理論的根拠をいわゆる「正当防衛論」であたえた。『赤旗』2月19日社説「反党盲従分子の暴力にたいする断固たる反撃は、正当防衛権の当然の行使である」と、青柳盛雄(日共中央委法規対策部長)の「反党盲従分子には正当防衛を」という2論文がそれである。とくに青柳論文は、過剰正当防衛でも刑は軽いか免除されるなどとのべ※、日共党員たちが暴力行為にふみきるよう”合法的に”はげましている点が注目にあたいする。
「防衛ノ程度ヲ超エタル行為ハ情状ニ因リ其刑ヲ減軽又ハ免除スルコトヲ得
これはいわゆる『過剰防衛』の問題である。すなわち、相手が参ってしまっているのに追い討ちをかけたり、こらしめの目的で防衛の必要以上の打撃を加えたりする場合である過剰防衛は一応罰せられることになっているが刑は軽くされるか免除される。(略)過剰になりはしないかなどと心配して、適切な反撃をひかえるのでは、正当防衛の権利を行使するというかまえでない。」
なお青柳は、反党盲従分子―善隣会館の場合は華僑学生とおきかえてよい―は「なんらの権力ももっていないし、権威ももたない連中だから、われわれが断固としてこれに対処するならば、敗退しさることはあきらか」であると、権力者に対しては弱く、権力をもたないものにたいしては強くなるといういかにも修正主義者らしい発言をしている。
※日共機関紙『赤旗』は投書欄で井上清に対する反論という形で「第1に過剰防衛は罪が軽いと助言する法律家が民主勢力のなかにいるでしょうか」と書かせて同紙に掲載された青柳論文を否定している。支離滅裂もきわまれりというべきであろう(大阪、成本忠彦3月30日号)
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ところで、日本共産党指導部が「前近代的無法者」―”紅衛兵”の東京における”代理人”と目した善隣学生会館の華僑学生は一体どんな人たちで構成されていたのであろうか。そのまえに善隣学生会館の華僑学生を理解するうえで在日華僑青年のおかれた教育状況にふれておくのも無駄ではないだろう。現在(1967年当時−編集者)、在日華僑の数は約4万8000名、そのうち青年学生が1万5000名をしめているといわれる。
青年総数のうち約80%が日本の学校教育をうけており、残り20%が半々のわりあいで中華人民共和国系と台湾当局系の民族教育をうけていると云われている。したがって母国語すら話せない青年も少なくないし、思想状況も複雑である。在日70万人の朝鮮人とことなって大学にいたるまでの一貫した民族教育はまだなされていない。ただわが国における屈折した生活環境と祖国の発展ぶりを反映して、強固な愛国心の持主が多いことが特徴的である。
これが在日華僑青年の一般状況であるが、さて善隣学生会館についていうと、流血事件前後は新学年の入れかえ時期にあたっており、約50余名の寮生の多くは、地方の親元を離れて東京の大学に入るために上京してきた男女の高校卒業生であった。かれらの多くは「日中友好協会」の反中国活動にその祖国愛から憤激しつつも、当面のエネルギーを、親元の期待にこたえて、入試の難関をこえ大学に入ることに注いでいたのである。
筆者自身もこれら華僑学生と話しあったことがあるが、かれらが祖国でおきている文化大革命について、基本文献すら目を通していない人が多いことに一驚させられた。また日本の地方という特殊環境に育ったかれらが、祖国でおこっている事象について理解を深める機会をうるのは、大学の学生生活に入って以後だろうことをつくづくと感じさせられたのである。
こうした状況のもとにある善隣学生会館の華僑学生たちが1ヵ月半もまえから、つまり入試準備にもっとも忙しかった1月半ばから計画的襲撃を準備していたなどと伝えるのは、善隣学生会館の華僑学生の実態についての全くの無知か作為によるものとしか思われない。『赤旗』紙のばあいは明らかに後者であろう。
このような、華僑学生を中国本土の紅衛兵にも劣らない毛沢東思想の活学活用―強固な実践者に急激にきたえあげたものはほかでもない日共党員たちの2月末から3月初めにかけて流血を招いた集団暴力行為だったのである。
もちろん、善隣学生会館の中国留学生後楽寮自治会は、1966年11月末に「本館は中日友好と文化交流を目的としており、中日友好を妨害するものが、この会館にいることは道理に反する」との声明を大字報(壁新聞)で明らかにしていた。さらに1967年に入り「日中友好協会」の反中国活動が激化するにともない、「本会館を反中国の目的に使うな」「日中友好の旗を掲げて日中友好に反対する破壊分子は会館から出てゆけ」という趣旨の壁新聞を数回にわたってはりだしていた。しかし、これらの行為はいずれも華僑学生の気持ちを率直にあらわした証拠にはなるが、「襲撃の計画的準備」の証拠にはただちにはなりえないものである。2月末から3月初めにかけておきた流血事件は、日本共産党修正主義指導部の方こそがかえって華僑青年学生にたいする集団暴力を計画的に準備していたことを証明したのである。
つぎに、具体的な事実経過にもとづいて、それを見てみよう。
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青柳論文が機関紙『赤旗』に発表されていご善隣学生会館に出入する日共党員や民青同盟員の数が急激に増え、華僑学生にたいする挑戦的態度もにわかにたかまった。大字報(壁新聞)がひんぱんに破られたり、「日中友好協会」が会館内で開いた映画会に入場しようとした華僑学生が「君たち中国人の来るところではない」と襟首をつかまれて追いだされたりした。(2月24日)同会館の玄関を出入する華僑学生は、かれらからきくにたえない悪罵をあびせられ、華僑女子学生などは一人歩きができないような状況に追いつめられた。
こうした緊迫したふんいきが続いたのちに2月28日から3月2日にかけての流血事件を迎えたのである。この3日間におきた事件の経過についてつぎにみてみよう。
(1)2月28日 夜11時ごろ、同会館入口附近の大字報が破られていることを発見した華僑学生が数人で調査中、通りかかった「日中友好協会」事務局員2人のうち酒気をおびた方が(後に村上糾と判明)大字報を破り、制止しようとした華僑学生の彭忠道の顔面を殴打し、事務局内に走りこんだ。このことに憤激した華僑学生が抗議すると「日中友好協会」を代表して小山慎平事務局員が一応その非を認め、謝罪状に署名した。華僑学生はひきあげ、玄関わきの破られた大字報のそばに、その謝罪状を壁しんぶんにしてはりだし、事件は落着したかにみえた。
ところが事件発生1時間後の深夜12時ごろ日本共産党と民主青年同盟の宣伝カーに分乗した60−70人の男たちがかけつけ華僑学生たちともみあいになった。華僑学生は女性を含みスクラムを組みこれを阻止した。
華僑青年連誼会の林伯耀主席は、かれらに話しあいを要求したが、かれらはとりあわず「ここは日本だ、おまえたちじゃりは出てゆけ!」「大国主義は出てゆけ!」などと罵倒した。数的に劣勢な華僑青年は「真の中日友好万歳!」「反中国分子は会館から出てゆけ」などのスローガンを叫び、「決意を固め、犠牲を恐れず、万難を排して、勝利をかちとろう」の毛主席語録の歌を合唱して互いに励ましあった。約1時間後、外部から進入した連中も「日中友好協会」事務所に入り一時小康状態になった。しかし、翌1日午前3時ごろ大字報の写真をとろうとすることに抗議した華僑学生数人が再び「日中友好協会」事務所からとびだした50〜60人の男たちに殴る、けるの集団暴行をうけた。
富坂警察署からは事件直後20数名の警官が5台のパトカーでやってきたが、なんの処置もとらずに10数分後にひきあげた。
(2)3月1日 午後6時、日本共産党と民青同盟員の暴行事件にたいして華僑青年が抗議集会を開く。この集会には日本の友好団体約150名が参加した。抗議集会は午後9時ごろ終り、日本人がわ参加者は数名を残して解散した。ところが日本共産党修正主義指導部は動員を続け、夜11時すぎには約500名にたっした。日本共産党の現地指導部はこれらの人数を「日本共産党」「民青」「全学連」の三つの部隊に編成し、腕に白いリボンをまき乱闘にそなえるさいの識別表とし、会館突入の姿勢を示した。
これにたいして、数の上で10分の1にみたない華僑学生と少数の日本人は、玄関附近でスクラムをくみ乱入を防ぐ態勢をとった。かけつけた警官隊は、当初華僑学生が「日中友好協会」を「監禁」したと見ていたが、現場をみてその事実のないことを確認せざるを得なかった。警官側は華僑学生にたいして「生命の安全を保障するからバリケードをといて休んでほしい」と申し入れ、500名をこえる日共党員らを会館前の道から排除しはじめたので、華僑学生側もその要請をうけいれ、警戒のための数名の不寝番を玄関内部に残して、2日2時半すぎ就寝した。
(3)3月2日 ところが「生命の安全を保障する」と確約した警官隊はいつのまにか引揚げてしまい、そのすきをぬって日共党員30数名がマイクロバスでのりつけ会館守衛の制止を無視し、不寝番に立っていた華僑青年4名にそれぞれ数人がかりで、なぐる、けるの集団暴行を加えたうえ、「日中友好協会」事務所にかけこんだ。急報にとびおきた華僑青年がかけつけ犯人を出せと要求すると、事務所内の人数と合流した60数名が一団となって女子学生を含め20名たらずの劣勢の華僑学生に襲いかかり乱闘になった。(この朝の事件で4人の華僑学生が負傷し、うち2人はただちに病院にはこばれた)。劣勢な華僑学生は一時おされたが、女子学生がバケツで水をかけ、日共党員がひるんだすきに、「日中友好協会」事務室内にかれらをおしもどした。
『赤旗』紙の報道によれば、このさい森下幸雄「日中」常任理事が華僑学生の暴力で重傷を負ったと伝えているが、これはまったくのデマである。「民青」出身のかれは、乱闘事件のさい直接指揮をとっていたが、一時対峙状況になったとき、なにをおもったのか”便所にいかせろ”と叫んで駈けだし、自分で足をとられ顔面を強く廊下にぶつけ怪我をしたにすぎないのである。
会館守衛は日共党員らが乱入するとすぐ警察に急報したがパトカーがやってきたのは30分たった7時半すぎ、乱闘事件がすでにおさまった後であった。しかも、警察当局は現行犯でないという理由で華僑学生の暴行犯人逮捕要求を拒否した。
華僑青年学生は午前10時、集会を開き、日本共産党修正主義グループの暴力犯罪行為に抗議した。そのころ日本共産党修正主義指導部は、同党党員、民青同盟員、学生など約500名を集め会館を包囲し、会館玄関口からの侵入をはかるとともに、建物の一角にある「日中友好協会」の事務所の窓から内部に人数をおくりこみ、華僑青年学生をはさみうちにする体制をととのえ、午後1時半ごろから内外呼応して「突撃」をおこなった。
(4)日共党員らついに武装襲撃 暴徒と化した日共党員らは、まず化学消化液を放射して華僑青年に目つぶしをくわせ、ついで棍棒、竹竿を手にして、素手の華僑青年を襲った。このとき、華僑青年劉道昌が重傷を負い、病院にはこばれた。
日共暴力団は暴行をはたらいたあげく「日中友好協会」事務所にひきあげた。
華僑青年たちは身の危険を感じ、再襲撃してくるのを防ぐために、「日中友好協会」事務所のドアの前に机や椅子を積み上げてバリケードをきずきはじめた。そのときすでに、「日中友好協会」事務所内では、ヘルメットと棍棒(鉄棒)で身を固めた日共党員らが再襲撃の用意をしていたのである。
善隣学生会館管理者側は、警官隊の出動を要請、警官隊は「生命の安全を保障するからバリケードを撤去してほしい」と同会館管理者がわと華僑学生がわに申し入れた。華僑学生はこれをうけいれ、まず同会館玄関入口のバリケードを撤去した。ついで、警官隊の責任者は、「日中友好協会」事務局入口付近にゆき、華僑学生に“生命の安全は絶対に保障するから若干後退してほしい”と要請、華僑学生がわはこれをうけいれて数歩後退した。さらに警官隊の責任者は「日中友好協会」事務局内の日共暴力団にたいし、ヘルメットと棍棒をはずして出てくるようによびかけた。するとこれを合図かのように、日共暴力団はかん声をあげながら、棍棒、鉄棒をふりあげて素手の華僑学生と支援の日本人に襲いかかったのである。警官隊の要請を入れて後退していた華僑学生たちは虚をつかれ、中国人2名(簡仁、任政光)日本人3名(近野、井垣、岸良)計5名の重傷者と多数の軽傷者をだした。「生命の安全を保障する」と確約した警官隊の責任者はいちはやく逃げだし、機動隊は暴力現行犯を目のまえにしながら逮捕しようともせず傍観しつづけた。さらに見逃せないことは、傷ついて抵抗力を失った華僑青年任政光を日共暴力団は「日中友好協会」事務所にひきずりこみ、集団リンチを加え、瀕死の状態にいたらしめたことである。
この日、現場にいて500名にのぼる暴力集団を直接指揮したのは、いずれも日本共産党の高級幹部と各級幹部たちであった。うち判明したものの氏名はつぎのとおりである。
内野竹千代(日共幹部会員候補生)高原晋一(同中央書記局員)金子満広(同中央書記局員候補)青柳盛雄(同中央法規対策部長)岩間正男(同中央委員参議院議員)
松本善明(同党衆議院議員)、梅津四郎(同党都議)、大沢三郎(同都議)、五明英太郎(同党国会議員団事務局長)、橋本広彦(中央本部勤務員)、網島英高(日共都中部地区法規対策部長)
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2月末から3月初めにかけての流血事件の経過からみて、善隣学生会館に居住する華僑学生が「日中友好協会」を襲撃したのではなく、暴力団と化した日本共産党修正主義グループが、華僑学生を計画的に襲撃し急をきいて駆けつけた支援日本人にたいしても暴力をふるい負傷させたということが結論として云える。
なぜなら、@宣伝カー、マイクロバスといった機動力を使って、深夜と早朝に60〜70名の集団で挑発をかけ、暴力を先に行使したのは、つねに日共党員たちだった。
A華僑学生の10倍、それに支援日本人を加えた数の4〜5倍にのぼる500〜600名の多勢の集団で会館を包囲し、集団的な脅迫を加えたのは日共指導部の方であった。
B乱闘にそなえての識別リボンの採用にはじまって、ヘルメットと棍棒、鉄棒で武装をおこない、化学消化液を放射し、ついには素手無防備の華僑学生に武装襲撃をおこなったのは日共暴力団であった。日本経済新聞社のカメラマンがとった現場写真はなによりも雄弁にこのことを実証している。さすがの日共機関紙『赤旗』もこの写真を掲載して、ヘルメットと棍棒で襲撃しているのが華僑学生と“盲従分子”であり、襲われているのが「日中友好協会」事務局員であるとは強弁しかねている。
それにひきかえ、華僑学生とそれを支援する友好団体が事件中にとった措置は、いずれも身の安全をはかる防衛的なものを一歩も出ていない。
@玄関前にバリケードをきずいたのは、3月1日午後11時から翌2日午前2時までと、3月2日午前10時から午後4時までで、いずれも500名をこえる日共党員たちの会館乱入をふせぐ措置であった。
また「日中友好協会」事務局入口にバリケードをきずいたのは、3月2日午後1時半から4時までであり、これはヘルメットと棍棒で武装された暴力団の突撃を防ぐための措置であった。
A華僑学生と支援団体はつねに素手とスクラムで日共暴力団に対抗した(唯一の例外はバケツの水をあびせたことであった)。ヘルメットと棍棒にたいする有効な自衛措置が準備されたのは3月2日の流血事件いごのことである。
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ここで日本共産党機関紙『赤旗』が華僑学生が「日中友好協会」事務局を襲撃したことの論拠としている1〜2の問題について吟味しておこう。
@事件はいずれも善隣学生会館1階の「協会本部」入口でおきており、「協会員」は華僑学生の住んでいる階上にあがっていないから襲撃したのは日共党員ではないという説について。
たしかに、華僑学生は3階、4階に居住しているが、外部への出入は直接そこからとびおりてするわけではなく、建物の構造上1階玄関が華僑学生にとって唯一の通路となっている。また日共暴力団が1階玄関より乱入し、そこに居合わせた華僑学生に暴行を加え「日中友好協会」事務室に走りこみ、そこからまた出撃するということを繰り返したことは経過説明ですでに述べたとおりである。したがって事件が1階玄関および「日中友好協会」に通じる1階廊下で起きたのは当然といえよう。華僑学生のいる3階、4階にのぼりさえしなければ、1階玄関附近に居合わせ、もしくは通行中の華僑学生に暴力をふるってもそれは襲撃にならないとでも云うのであろうか。
A華僑学生に「日中友好協会」事務局員が不法に監禁されたという説について
「これが人間のすることか、華僑学生らの襲撃で二日間(2月28日から)不法監禁された西村郁子さんの手記」というのが『赤旗』3月10日にのせられている。この説も細かく現場の状況をみるとなりたたない。
「日中友好協会」事務室には、会館玄関へ通ずる入口と、階段をおりて地下食堂、地下便所、それから会館横の往来に通ずる入口の二つがある。華僑学生が暴力犯人の逮捕を要求したり、武装暴力団の突撃を阻止するために2時間半ほどバリケードをきずいたのは、玄関へ通ずる入口の方だけであり、反対側の入口には全然手をつけていない。したがって「日中友好協会」事務局内部のものが、地下便所なり地下食堂へ行く道はつねにあけてあり、地下から外部への出入もさまたげられていたわけではないのである。しかも会館外側の公道を数百名の日共党員で固めているもとでは食事もとることができず便所へもゆけない不法監禁状態にあったとは到底云えないはずである。『赤旗』紙もこの点については都合が悪いと感じたらしく、地下食堂を通って会館横の道路へ抜ける道路については、数回にわたってのせた見取図では全然ふれていないのである。
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善隣学生会館における流血事件は、われわれのまえに、つぎの諸点を明らかにすると同時に、今後検討を加えなければならないいくつかの問題を提起した。
1 日本共産党修正主義グループにたいして革新陣営の中で多くの人びとがいだいていた幻想が今回の事件で打破られ、今日の時点でかれらが果たしているやくわりが日本人民のまえに明らかにされた。日本共産党修正主義グループは、アジア情勢の緊迫している現時点において、アメリカ帝国主義と真正面から対決している中国人民と中国共産党を対象にして革新陣営の中に民族排外主義をまきおこし、アメリカ帝国主義と復活した日本軍国主義の対中国侵略準備に協力をこれまでもおこなってきた。かれらのとなえる「自主独立」なるスローガンは、そのかくれみのにすぎない。しかし、このかくれみのにごまかされて多くの人びとが日共修正主義グループにたいする幻想をいだきつづけてきたことは否めない事実である。今回の流血事件における日共修正主義グループの集団暴力行為は、こうした幻想を一気につきくずし、かれらが日本軍国主義者の別働隊―左翼陣営にもぐりこんだ突撃隊―であることを誰の目にも明かにした。歴史学者の井上清京大教授のつぎの発言は、この事実を的確に示すよい例である。
「日本共産党なり、そして日中友好を掲げるものが先頭に立って中国に対して"チャンコロ"だとか何だとかいうことは何ごとであるかと。これは明かに、日本に今復活しつつあるところの軍国主義思想、排外主義の軍国主義思想を煽動し助長するものであって、この中国人の留学生に対して、日本の青年を襲いかからせたと全く同じというか、それとそれと深く結びついたものといえます。彼らのいわば思想的な根底にはこういうような排外主義的な帝国主義民族思想があるということであります。これで一体軍国主義に反対するなどとか、帝国主義に反対するなどとよくいえたものだと私は思うのであります。
ここは日本の領土だから出てゆけ、というのは相手を間違っておるのじゃないか、アメリカ大使館へ行き米軍の基地に行って、ここは日本の領土だ、おまえたちは出て行け、というべきであります。(略)これまで一生懸命(日共を)支持してきましたけれども、この事件はついに私を教育してくれました。私がほんとうに支持すべきもの、ほんとうに手を結んでいくべきものは誰であるか、そして誰と闘わなければならないかということを私に教えてくれました」(67年3月6日の善隣学生会館事件真相報告会における発言資料参照)。
文化界35氏の声明にのべられているように、日本共産党修正主義グループのひきおこした暴行事件は、イデオロギーのいかんを問わず、心ある日本人の憤激を買い、かれらは日一日と孤立化の道を歩いている(声明に着いては資料欄参照)。
このことは事実であるが、われわれが考えなければならないことは、日共修正主義グループ30万党員とその周辺にある根強い軍国主義的排外民族主義の存在である。これはいわゆる革新陣営の戦後における日中友好運動へのとりくむ姿勢と密接な連関性がある。つまり左翼陣営とくに日本共産党に指導される戦後の日中運動が、アジアにおける社会主義国中国への傾斜という側面でのみおしすすめられ、近代における日中両国民族の不幸な関係―日本の対中国侵略戦―への反省という立場と視点を欠落しがちであったことが国際共産主義運動の分裂とそれを利用した支配層の大量宣伝とあいまって「革新陣営」のなかに、中国を対象とした排外主義の潮流を発生、発展させたといえる。この潮流の克服は現代中国研究や日中友好運動のこれからの発展にとって重大な課題といえよう。
2 数的に劣勢な華僑学生(華僑学生とともに闘った日本人を含む)がわが、常に量的に優勢である日共修正主義グループの暴力部隊を圧倒していたことは、きわめて注目にあたいする。
日共修正主義グループは全国で30万の党員を擁し、その支配下の偽装大衆団体の構成員もかなりの数にのぼっている。一方在日華僑は前述したとおりであり、同会館の華僑学生と共闘した日本人の諸団体の人員も量的にみたばあい日共修正主義グループにくらべて比較にならない劣勢であった。日共修正主義グループは、会館の包囲に約500〜600人、会館の襲撃時には約60〜80人を常時投入したが、華僑学生がわは総数で約150人前後、館内での襲撃に対しては20〜40人前後であった。日本共産党修正主義グループは当初前掲の青柳盛雄論文にあるように"プロレタリアートの実力"を発揮して、ひとひねりにしなければならないし、またできるはずのものと考えていたにちがいない。ところが2月28日から3月2日にかけての闘争の局面では少数の華僑学生を"ひとひねり"にできなかったばかりでなく襲撃するたびにこの自称プロレタリアートの部隊は、高校卒業の男女学生を主力とする華僑青年がわの手強い抵抗をうけて敗退せざるをえなかったのである。こうした"奇跡"にも似た現象がなぜおこったのであろうか。それは華僑学生がわが日中8億人民の友好の利益の立場に立っていたばかりでなく、闘争のなかで"毛沢東思想"を活学活用し、それを身につけていったからだといえよう。
ヘルメットをかぶり、棍棒、鉄棒で武装した日共暴力部隊を前に"下定決心、不怕犠牲、排除万難去争取勝利(決意を固め、犠牲をおそれず、あらゆる困難を克服して、勝利をたたかいとるようにしなければならない"の毛主席語録を合唱し、気魄においてすでに完全に敵側を圧倒するまでに、華僑学生は闘争を通じて急速に成長したことである。
善隣学生会館事件は、毛沢東思想に武装された華僑学生(共闘した日本人を含む)が、修正主義で武装された職業的政治暴力集団との前哨戦に勝利した記録ともいえよう。
毛沢東思想の活学活用による華僑青年の成長ぶりと高度の戦闘性との関連は、今後ほりさげなければならない重要な研究課題である。
3 善隣学生会館事件は、日中両国人民の戦闘的友誼とはいかなるものであるかをとくに、日中両国の青年がともに腕をくんでたたかい、ともに血を流した事実によってあざやかに示した。
これは、日中友好運動にとって画期的なことがらといえよう。
また、日共修正主義グループとの闘争のなかで血を流した華僑青年と日本青年の精神をうけついで、日中青年学生共闘会議が誕生したことは注目にあたいする。
日中青年学生共闘会議は3月18日に「ニセ日中を善隣学生会館から追い出し、反帝反修闘争を断固として闘いぬこうと決意する」青年労働者、学生200余名を集めて、善隣学生会館地下ホールで結成された。(議長=畠山嘉克 事務局長=森井芳勝)。
善隣学生会館の闘争の中から反帝反修の戦闘部隊として毛沢東思想の具体的実践を通じて、その目的を達成しようとする日中青年学生共闘会議の発足は、日中友好運動の分野をこえて重大な歴史的意義をもつものとみなければならない(資料「日中青学共闘ニュース」参照)
なぜなら、毛沢東思想の活学活用をわが国の変革と結合させてとらえる運動集団はこれまで少なかったし、とくに青年層にそれが欠けていたからである。
わが国の首都において、毛沢東思想の具体的実践を通じて、反帝反修、日本革命の目的を達成しようとする青年学生運動が誕生したことは、この意味において非常に注目すべきものであり、これまた大きな運動上、理論上の問題を提起したものといえよう。