日共修正主義グループの | |
華僑青年学生に対する襲撃事件の真相 |
ま え が き
日共修正主義グループは、善隣学生会館の一角をかすめとっているニセ「日中友好協会」を反中国の拠点にし、二月二十八日から三月二日にかけて連日、暴徒を指揮して、華僑青年学生に対し、また、暴虐に抗して闘っている華僑青年学生を支援するためかけつけた日本の友人に対して気違いじみた迫害をくわえ、重傷者七名を含む二十数名の負傷者を出すというおどろくべき流血事件をひきおこしました。日共修正主義グループのこの狂気じみた反中国の暴行は、日本の警察当局の目の前で公然とおこなわれたものです。下手人はいまなお法の網をのがれており、善隣学生会館に住む華僑青年学生の身の安全がいちじるしく脅かされております。事態はきわめて重大です。
日共修正主義グループのひきおこしたこの度の反中国の流血事件は、偶然のものではありません。これは、帝国主義、修正主義および反動派による反中国の大合唱の一部であり、日共修正主義グループが昨年来計画的に、組織的に公然とすすめてきた反中国活動の一環をなしており、中国人留学生を殴打したソ連修正主義の血なまぐさい暴行と全く軌を一にしています。
昨年、日共修正主義グループは「日中友好協会」の名を盗用して、ひきつづき善隣学生会館内の元日中友好協会の事務所に居座って、われわれの偉大な指導者毛主席と無敵の毛沢東思想を攻撃するなど、さまざまな罪悪に満ちた反中国活動をおこなってきました。
もともと善隣学生会館は中華人民共和国の財産であり、中日両国の国交がまだ回復されていないため、暫時懸案になって、理事会による一時的管理がおこなわれているものです。善隣学生会館は華僑学生の寮であると同時に、中日友好と文化交流のために使用することを目的とした会館です。しかしながら、ニセ「日中友好協会」は、完全に日共修正主義グループの反中国の道具と拠点になって、華僑学生の学習と生活を撹乱し、華僑学生を敵視するなど、善隣学生会館の目的に全く反する活動をおこなっています。わたしたち華僑の学生は、中日友好を守り、自分たちの会館内における正常な生活を守り保障するため、狂気じみた反中国活動をすすめているニセ「日中友好協会」の立退きを要求することは、全く正当なものであります。
日共修正主義グループによる中国人青年学生にたいする襲撃事件は計画的なものであり、かねてから企まれたものであります。日共修正主義グループはやっきになって、わたしたちのもっとも敬愛する指導者毛主席と無敵の毛沢東思想を攻撃し、中国のプロレタリア文化大革命および紅衛兵運動に反対して、反中国の急先鋒をつとめています。また、最近では<赤旗>紙上などを通じて、暴力で革命人民を攻撃することを鼓舞し、在日華僑に対する攻撃をいちだんと強めています。こうしたことを背景に、このたびの東京における中国人学生襲撃の流血事件がひきおこされたのです。
多くの事実が証明しているように、日共修正主義グループは、いまでは完全にファッショ的暴徒、帝国主義と反動派の手先、国際共産主義運動の裏切り者、中日両国人民の敵になりさがっています。
日共修正主義グループの逆コースは、結果において、まさにわたしたちの偉大な指導者毛主席が指摘しているように必ず“石をもちあげて、自分自身の足を打つ”にちがいありません。
“すべての反動派はハリコの虎である。”私たちの偉大な指導者毛主席はこのように教えています。“撹乱、失敗、ふたたび撹乱、ふたたび失敗、最後に滅亡―これが人民の事業に対処する帝国主義と世界のいっさいの反動派の論理で、かれらはけっしてこの論理に反することはない。”と。
以下はこんどの事件の真相です。
一九六六年十月二十五日、日共修正主義グループは、日中友好協会内の日共修正主義分子に指示して、中日友好協会と日中友好協会が発表した共同声明に反対し、日中友好協会の分裂を造りだした。日中友好の伝統を堅持する日本の友人は日中友好協会(正統)本部を組織した。
日共修正主義グループは日中友好協会の名義を盗用し、善隣学生会館(以下会館と略称)に居すわり、ニセ「日中友好協会」事務所を反中国の拠点とし、反中国活動を行なってきた。十一月末、中日友好と文化交流を目的にしなければならぬという会館の使用趣旨にもとづいて、華僑青年学生は、「本館は中日友好と文化交流を目的にしており、中日友好を妨害するものがこの会館にいることは全く道理に反している」という意味の大字報をはり出した。
一九六七年一月十六日、ニセ「日中友好協会」は会館二階の会議室で日修が指導する亜細亜通信社の中の反動的労働組合、極東書店労働組合と日中貿促労働組合など諸団体の組合員を召集し、反中国活動を堅持するようかれらにテコ入れした。
一月二四日、日共修正主義グループ中央機関紙<赤旗>は「紅衛兵の不当な非難に答える」という無署名の論文をのせ、偉大な指導者毛主席に対し、必勝不敗の毛沢東思想とプロレタリア文化大革命、紅衛兵運動に対してほしいままに攻撃した。
一月二八日、野坂参三みずから「自民党が紅衛兵運動を利用しておこなっている反共宣伝に答える」という談話を発表し、ひきつづき中国のプロレタリア文化大革命を激しく攻撃し、侮辱した。
一月二九日、会館の玄関にはってあった華僑青年学生の大字報(十一月末の大字報と同文)が、ニセ「日中友好協会」の反中国分子によってやぶられた。
一月三十日、朝、華僑青年学生は、「大字報を破った卑劣漢を糾弾する」という題で、偉大な毛主席と毛沢東思想を守り、日修がアメリカ帝国主義、ソ連現代修正主義および各国の反動派と同じ立場に立っていることをバクロした大字報を会館の玄関にはりだした。
同日夕方、ニセ「日中友好協会」は寮の食堂の前と文化室に反中国の脅迫ビラを投げ込み、さらに便所の壁に、「反毛沢東、反紅衛兵」という反中国スローガンをかきつけた。
二月十九日、会館内の日中友好協会(正統)本部倉石(中国語講習会)班および同日中学院支部、後楽寮自治会は、共同主催で、「毛主席、百万の紅衛兵と会見」と、日本の教職員訪中団が撮影した訪中記録フィルムを上映したあと、岩村三千夫氏は席上「プロレタリア文化大革命と紅衛兵」について講演した。
二月九日−二月二十一日、日共修正主義グループは、つぎつぎと、<赤旗>に中国のプロレタリア文化大革命、紅衛兵運動に対する攻撃の文章を発表するとともに、ほこ先を日本の革命人民と留日華僑青年学生にむけ、暴力をふるうことを鼓舞した。
二月十六日、<赤旗>の一面トップに、「中国留日同学会の不当な干渉と非難を断固糾弾する」という日共京都府委員会の文章をのせ、華僑学生に向ってたたかいをいどんできた。
二月十七日、<赤旗>は一面トップに中国の紅衛兵運動を攻撃した論文「『紅衛兵』のわが党にたいする下劣な攻撃について」を掲載。
二月十九日、<赤旗>はいわゆる「暴力による正当防衛」を鼓舞した主旨の主張を発表。
二月二十一日、青柳盛雄(日共中央法規対策部長)は、「反党盲従分子の暴力には正当防衛を」という論文を発表し、ファッショ暴力団をもって日本の革命人民に対処するよう日修分子によびかけた。
二月二十四日、ニセ「日中友好協会」は、ニセ「第十六回日中友好協会全国大会」に出席する反中国分子を動員して、会館内で、反中国活動をおこなった。
華僑青年は、この挑発的行動に憤激して「本会館を反中国の目的に使うな!」「日中友好の旗をかかげて日中友好に反対する破壊分子は会館から出て行け!」などのスローガンをはり出した。
疑問をもった華僑青年は、確かめるために入場を申し出たところ、相手はすぐさま、横暴にも、「君たち中国人は、映画を見たいのなら、『正統』へ行け!」といった。
そこで、華僑青年は、ニセ「日中友好協会」の反中国分子に対し抗議した。
深夜十二時、華僑青年の呉平安、林盛雄はその目でニセ「日中友好協会」の腕章をつけた反中国分子が、寮生のはり出した大字報と寮自治会の声明文を破って、持ち去るのを見た。
その場で、大字報を返せと要求したら、かれは事務所に逃げこんだ。
二月二十六日、午後一時、ニセ「日中友好協会全国大会」に抗議文を手渡しに行った時、一人の反中国分子は華僑青年陳明栄を「暴力団」といって罵倒した。また二、三十名の反中国分子は、抗議文を手渡した華僑の青年学生に悪罵をあびせた。
二月二十七日、後楽寮自治会は、ニセ「第十六回大会」につきつけた抗議文を大字報にして玄関にはり出した。
ニセ「日中友好協会」の機関紙<日中友好新聞>は「後楽寮自治会の妨害を排除する」という文章を一面トップにのせ、華僑青年学生に攻撃をくわえてきた。
二月十八日、夜十一時頃、ニセ「日中友好協会」の反中国分子に再び華僑学生のはり出した大字報が破られているのを発見した。
六人の華僑学生がこの事件を調査している時、ニセ「日中友好協会」の反中国分子二名が挑発してきた。このうち一人は、いきなり華僑の学生彭忠道を殴打して、ニセ「日中友好協会」の事務所に逃げこんだ。
残った一人に対し、寮生が強く抗議したら、自分は「日中友好協会の代表」であると称して、大字報を破り、華僑青年を殴打したことをしぶしぶながら認めた。深夜十二時頃、六、七十名の日修「党員」と「民青」の宣伝カーに乗って会館の玄関と窓からニセ「日中友好協会」の事務所に入り、合流して廊下にとびだし、集団的に挑発をかけてきた。
この時、華僑青年はスクラムを組み、ニセ「日中友好協会」に対して殴打した犯人を出せと要求した。
また、華僑青年聯誼会主席林伯耀は、彼らに対し、代表を出して話し合うよう要求したが、彼らはとり合わないばかりか、すごいけん幕で「ここは日本だ、お前たちジャリは出て行け!」「日本の民主運動を分裂させる考えはやめろ!」「大国主義は出て行け!」などと罵倒した。
華僑青年は、「真の中日友好万歳!」「反中国分子は会館から出て行け!」などのスローガンをさけんだ後、声高らかに「偉大な舵とり毛主席」や「決意を固め、犠牲を恐れず、万難を排して、勝利をかちとろう」の毛主席語録の歌をさらに声高らかに合唱し、毛主席語録を朗読して互いに励ましあった。
三月一日、午後三時頃、ニセ「日中友好協会」の五、六人が連れだって便所へ行くふりをして、様子を探りに出て来た。亜細亜通信社から解雇された反中国分子中村は玄関で警備していた華僑青年の顔写真をとり、挑発をかけた。
中村と一緒に出てきた幾人かの反中国分子は、ニセ「日中友好協会」の事務所内の暴徒に向って、大声で「早く出てこい!!」とさけびかけるやいなや、五、六十人の暴徒がニセ「日中友好協会」の室内から正面玄関におしかけ、華僑青年をとりかこんで、殴る、けるの暴行をはたらいた。
その直後、富坂警察署から二十数人の警官が五台のパトカーで乗りつけてきたが、暴徒に対してはなんら処置を取らずに、十数分後にはひきあげた。
その日の夕方六時頃、憤激した華僑青年学生は、日共修正主義グループの指導する暴徒が会館を襲撃し華僑青年学生を殴打した事件に対して抗議集会を開いた。集会には、日本の友人が多数参加し華僑青年の正義の闘いを指示し、日共修正主義グループの暴力行為を激しく糾弾した。
夜八時過ぎ、集会解散後、日共修正主義グループは二百余名の暴徒を集め、「日共」「民青」「全学連」の三組に分かれて会館を包囲し、夜半にはすでに四百余名に達していた。日共国会議員松本善明が現場にかけつけ、「これは長期戦であり、いつでも闘う準備をしておかなければならない」と暴徒に向って扇動した。
自治会委員長邱獅君は、すぐさま現場にきていた警官に対し、不法侵入して華僑青年学生を殴打した犯人を厳重に処罰し、会館を包囲して華僑青年学生の身の安全をおびやかすような状態を排除するよう要求した。
日本の警察当局は反中国分子の意を受けて、華僑青年学生が一階から三、四階にもどるよう、まったく道理にあわない要求をもちだすとともに、華僑青年学生が、ニセ「日中友好協会」を監禁したなどと暴言をはいた。邱獅君はこのような道理に合わない要求を断固拒否した。双方は深夜まで対峙した。
三月二日、午前七時頃、マイクロバスで日本共産党修正主義グループの三十余名の暴徒(うち一人がトランシーバーを携帯)が会館前にのりつけた。
彼らは会館に不法乱入し、玄関にいた四人の華僑青年に襲いかかった。そこにいた華僑青年薛永祥はけられて負傷し、王政明は左耳のうしろをなぐられて出血した。
侵入した暴徒はさらに、ニセ「日中友好協会」のなかにいた他の暴徒たちと合流し、犯人を出せと要求する華僑青年学生に対して、またもや野蛮な暴行をくわえた。そのため王俊英は右目に負傷した。王政明と王俊英はただちに病院に運ばれた。
なお、この日の朝起った流血事件は、正体不明の男がニセ「日中友好協会」の事務所にこっそり入った直後に起ったものである。この流血事件が起るや、会館の守衛は直ちに警察に連絡したが、七時半になってやっと一台のパトカーがきて、現行犯でないからという口実で、負傷した華僑青年がだした犯人逮捕の要求を拒否した。警察はまた、事件の真相を「調査」する名目で調書をとらせてくれといって時間をひきのばし、犯人を追及しなかった。
一方、日本当局の救急車は負傷した王俊英を病院に運んで治療をうけさせたのち、こともあろうにそのまま「警察署」につれて行き、本人の苦痛もかえりみず長時間調書をとった。寮では王俊英の行方をさがしたところ、富坂署につれていかれたことがわかった。寮生が迎にいったが、「そんな人はきていない」といってことわられた。寮ではさらに調査した結果、富坂署にいることが確認されたので、ふたたび富坂署にいき、強行に談判した。たまたまその時富坂署で本人を見かけたので警察の非人道的な措置にたいし強く抗議し、本人をただちにつれてかえることを要求したが、警察はさらに王俊英に対し調書への署名捺印を強要した。王俊英は憤激のあまりこれを拒否した。
当日、直接現場にいて暴徒を指揮していたものは日共幹部会員候補内野竹千代、日共中央書記局員高原晋一、日共中央書記局員候補金子満広、日共中央法規対策部長青柳盛雄、日共中央委員・国会議員岩間正男、日共国会議員松本善明、日共中央本部勤務員橋本広彦、日共中央中部地区法規対策部長綱島英高、日共東京都議会議員梅津四郎、大沢三郎、日共国会議員団事務局長五明英太郎などである。
同日午前十時、華僑青年学生は再度集会を開き、日共修正主義グループの華僑迫害の犯罪行為に抗議した。日共修正主義分子はまた五百余名を集めて会館を包囲し、集団脅迫した。会館理事会の連絡で警察は大勢の警官と機動隊を派遣してきたが、日共修正主義分子の不法行為を傍観して取締ろうとしなかった。
午後一時半ごろ、警官の庇護と黙認のもとに、いっそう狂暴化した日修の暴徒は、会館玄関から侵入をはかるとともに、建物の一角にあるニセ「日中友好協会」事務所の窓から内部に人を送りこみ、華僑青年学生をはさみうちする体制をととのえて、内外呼応して「突撃」したきたが、華僑青年学生は団結して暴徒の襲撃をくいとめた。暴徒はこんどは科学消化液を放射し、青年学生の目をつぶすことをねらった。華僑青年が水をかけて防戦しているすきに、暴徒は棍棒、竹竿で素手の華僑青年に猛然と襲いかかった。華僑青年劉道昌は暴徒に殴られ人事不省となり、生命が危ぶまれ、ただちに病院に運ばれた。
暴徒はさんざん暴行をはたらいたあげく、ニセ「日中友好協会」事務所にひきあげた。
華僑青年は身の危険を感じ、暴徒が再度襲撃してくるのを防ぐため、ニセ「日中友好協会」のドアの前に机や椅子を積み上げてバリケードをきづきはじめた。その時、暴徒は棍棒で入口のガラスをつきやぶり、竹竿や棍棒で華僑青年めがけてついてきた。室内には大勢のヘルメットに棍棒で武装した殺気だった暴徒がいた。華僑青年学生はますます身の危険を感じ、バリケードをきずきながら暴徒に向って、「ヘルメットをとれ、棍棒を捨てろ」とうったえた。
ヘルメットをかぶり、手に角材、棍棒、鉄棒をもった暴徒はまたもや廊下にとび出し、かん声をあげながら素手の華僑青年と支援にかけつけた日本の友人に猛烈にと襲いかかってきた。暴徒が襲撃している間、日本の警官は手をこまねいて暴徒のなすがままにまかせた。そればかりか、日共修正主義グループの暴徒が華僑青年に襲いかかったとき、華僑青年および日本の友人の前にいた警官はいちはやく逃げだした。英雄的な華僑青年および日本の友人は暴徒の襲撃を阻止するためにスクラムを組んで毅然とたちむかった。最前列にいた素手の華僑青年簡仁と日本の友人近野、井垣、岸良君らは頭を打ち割られて血を流し、人事不省となり、直ちに病院に運ばれた。さらに重大なことは、暴徒になぐられた華僑青年任政光は、暴徒によってニセ「日中友好協会」の事務所内にひきずりこまれ、さんざんなぐられたあと、いつの間にか窓から病院に運ばれていた。
二時間以上たってはじめて中華書店に「おたくの書店のひとがなぐられて死にかかっていて、いま神保院にいます……」という電話がかかってきた。中華書店の責任者が急いで神保院にかけつけたところ、任政光はすでに人事不省におちいり、頭を割られ、口から血を吹いて瀕死の重傷にあった。
病院側は少しも治療する意図がなく、誰も看護していなかった。中華書店責任者陳文貴がすぐに任政光を慶応病院に運んだ。入院手続きが終ったときはもう夜中だった。任政光は頭部に重傷をうけ、内臓に出血があり、全身傷だらけになっていた。これはあきらかに警官の目の前でおこなわれた殺人行為である。
そのほか、同じ病院に運ばれた日本の友人、近野はなぐられて頭蓋骨が直径十センチにわたって陥没し、意識不明で生命危篤である。
同夜、華僑青年の闘争の支援にかけつけた日本各界の友人が集会を開き、闘争委員会を設立したとき、反中国分子の全学連中央執行委員・東京都学連副委員長小向鉄郎がスパイするために潜入したが、日本の青年によって発見された。この事実によって日共修正主義グループの卑劣な行為があますことなく暴露された。
二日午後四時半頃、廖承志事務所駐東京連絡事務所孫平化首席代表らは、会館、京北病院、慶応大学病院を訪れ、光栄にも負傷した華僑青年学生と日本の友人を慰問した。
孫平化氏がが会館に到着してのち、日共東京都会議員梅津四郎は居合わせた新聞記者に対し「孫平化が来たってかまうもんか、ここは日本の領土だ。孫平化を排除してもかまわない。」と暴言をはき、さらに、その場で指揮をとっていた警官に向っては「孫平化だって遠慮はいらぬ。なぐったってかまわない。」とわめいた。
三月三日午前、会館理事会は緊急会議を召集して、「中国人学生を世話する会館として、このような不祥事をおこしたことについては、責任を感じ、負傷した学生およびその父兄に陳謝し、医療費は会館で全額負担する。また、沖寮長の名義で日共修正主義暴力団の学生にたいする暴行傷害を検察庁に告発する一方、ニセ『日中友好協会』は会館の日中友好の原則に反するからあらゆる手段を講じてこれを排除する」ことを決定し、華僑総会の代表および寮の責任者をまねいてこの旨を正式に伝え、さらに華僑学生は被害者であることを認めた。
同日、東京華僑総会は緊急理事会を召集して、日共修正主義グループのファッショ的暴行を激しく糾弾する声明を発表し、さらに官房長官、警視庁、富坂警察署、会館理事者に対して抗議することを決定した。
同日午後三時、日中友好協会正統本部は記者会見を行ない、日共修正主義グループの華僑青年学生に対する迫害事件の真相を報告し、あわせてこの事件についての声明を発表した。
同日午前十時、検察当局は、日共国会議員と弁護士の要求に基づいて、暴徒らの便所への出入りを「保証」するということを口実に、裁判所の仮処分をとり、警察の力をかりて華僑青年をむりやりに廊下の片すみにひきさがらせた。
三月四日午前、孫平化氏は病院に赴いて、重傷の華僑青年任政光と、日本人青年近野省三を見舞い、慰問した。任政光は、吐血、血尿をつづけている。
近野君は、すでの頭部の手術は終えたが、手術後視力が減退し、なお危険期を脱していない。
午後二時、華僑総会と日中友好協会正統本部は、会館内で合同集会を行ない、華僑に対する日共修正主義グループの気狂いじみた迫害に抗議した。孫平化氏は大会に出席し、日共修正主義分子の暴虐行為をはげしく非難し、華僑の正統な権益を守る正義の闘いを支持する演説をおこなった。
午後六時、日共修正主義グループは「安保破棄・諸要求貫徹中央実行委員会」の名で、千数百名の「日共党員」、「民青同盟員」、青年学生をかき集め、礫泉公園において、いわゆる「日中友好協会支援、日本の民主運動にたいする暴力と不当干渉抗議、対外盲従分子粉砕」という反中国大会を開き、閉会後、反中国「デモ行進」にうつり、善隣学生会館のそばだけでなく、故意に、廖承志事務所の代表と中国記者の宿舎から百メートルほど隔てた道路を選んで「行進」した。
このデモコースは、日本政府当局が許可したものである。
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このパンフをお読みになって今度の事件の張本人がほかでもなく日共修正主義グループであり、被害者は華僑の青年学生であることがおわかりになったと思います。
日共修正主義グループの華僑青年学生に対する迫害は、まだおわっていません。現に、善隣学生会館内にあるニセ「日中友好協会」事務所のなかには、毎日のように日共修正主義グループによって多数の暴徒がおくりこまれ、「スキあらば」という暴徒の態度に、会館全体がいまなおただならぬ緊張した空気につつまれています。こうした状況のなかで、会館に居住する青年学生の学習と正常な生活の保障はおろか、身の安全さえいちじるしく脅かされています。
しかし、無敵の毛沢東思想によって武装された華僑の青年学生は、暴徒が何をしようとも、決してひるむものではありません。事件の真相が広く世間にしれわたるにつれて、日共修正主義グループの暴虐行為に抗して闘う華僑青年学生の正義の闘争はますます多くの人びとの支持を獲得しています。日共修正主義グループがどんなにおかかえの宣伝機構を動員して自分に都合のいい宣伝をしてみたところで、日ましにそのみにくい正体をさらけだし、広範な日本人民大衆からますます見なされるにちがいありません。
わたしたちは、中日両国人民の友情を一貫して重視しています。両国の人民がきづきあげた二千年来の友好、とくに、戦後、アメリカ帝国主義に反対する共同の闘いのなかできづきあげたかたい戦闘的友情が、ひとにぎりの日共修正主義者の黒い手によってぶちこわされるのを日本人民は断じて許すはずがないとかたく信じています。
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