台湾問題を考える−『台湾の民主・独立』は本当に進歩の道になるのか?

台湾問題と中華人民共和国政府の提案

 1979年1月1日に中華人民共和国全国人民代表大会常務委員会が発表した「台湾同胞に告げる書」は、当時の中華人民共和国政府(以下、中国政府とする)が、主に当時の台湾当局であった国民党政府に対して、台湾と中国との平和的な統一の道程を示し、交流の開始を呼びかけたものであった。これは、国連代表権の取得と国連加盟およびそれに伴う台湾国民党政権の国連あるいは国際的な機構一般からの追放、文化大革命の終結、中米、中日の国交正常化とベトナム戦争終結などの一連の政治状況を踏まえた改革開放政策としての、台湾政策の変化を示すものであった。時をおかず、中国政府は葉剣英やケ小平の談話などを通して、台湾と中国の統一にむけた具体的なプロトコルとして、

・一つの中国の原則

・一国両制

・高度の自治

・平和交渉

を提案し、台湾海峡両岸の交流を実際に促進した。これに対して台湾当局は、表向きには「交渉せず、接触せず妥協せず」の三不政策を掲げたが、さまざまな経路を通して両岸の隔絶状況の緩和が実現し、今日の民間交流、経済交流の発展は、基本的に中国政府のこの政策を受けた結果である。

 しかし、両岸関係においては敵対的軍事対峙から平和交流という誰もが肯定できる動向の深化を通した問題の消滅により、いわゆる台湾問題が眠り込んでいきはしなかった。四半世紀を経過した後の台湾海峡は当時の両岸指導者の予測を超えて、新たな展開を向かえているようである。その展開のキーワードになっている要因は、あるいは民主化であり、また台湾の独立志向である。

 1979年以降に展開された中国政府の提案は、領土の回復という中国の国家的な願望の満足を求める要求であるだけでなく、中国近代史における民族および国家の受けた恥辱を撥ね退け、民族と国家の尊厳を回復するという、19世紀以来の中国における共通目的、共通認識である中国革命の完遂の意味を持つ1)。この側面を中国政府の一方的な主張であるとして切り捨てた場合、いわゆる台湾問題の理解は非常に偏ったものにならざるを得ない。台湾問題について中国政府が提唱している一国両制などのプロトコルの適用対象は台湾に限られたものではなく、提唱当時(1979年)において未解決の領土問題であった台湾、香港、マカオの問題を包括的に解決する方法論として提起されたものであり、また当時の中国の立場からの妥協を惜しまない現実的で大胆な提案であった。実際に、香港とマカオについては、この方式による中国への復帰が実現している。

 周知の通り、抗日戦争後の国共内戦に敗れた蒋介石配下の中国国民党は台湾に逃れ、1949年以降この地に戒厳令を施行して大陸反攻を目指した。やがて、朝鮮戦争で決定的になったアジアの冷戦体制の中で、台湾の国民党政権はアメリカのアジア戦略としての中国封じ込め政策に自らを組み入れ、その体制に擁護され、その前進基地として生き残ることになり、これが台湾問題の発生した基本的な原因である。独立派などを含めた台湾問題の多数の議論においても、この事情について認識は、疑う余地のないものである2)。国共内戦における共産党の国民党政権に対する1949年の勝利は、明白に中国人民の共産党政権に対する広範な支持を反映していたものであり、当時のアメリカ政府の動向にはこれを承認する可能性もあったといわれている。しかし、歴史的な事実として、アメリカが採用した選択肢は新中国に対する一貫した封じ込め政策であり、アジア諸国の政治的帰趨に対する強烈な干渉であった。これらの方針の決定は、アメリカの戦略的な目的から発せられたものであり、アメリカの国益をアジアにおいて貫徹するためのものであった。

台湾の民主化過程

 台湾では1987年に1949年以来の戒厳令が解除され、政治制度の民主的改革が実施されていったが、その実現経路には台湾を支配していた国民党政権の歴史的性格の影が強く投じられている。台湾の国民党政権は中国大陸全体を代表する政権であるという建前の下に、各省の代表によって構成される立法・行政の中央政府である中華民国政府と台湾省政府という二重政権構造になっていた。中央政府では1947年に中国大陸の国民政府が実効支配していた地域で実施されたという選挙の結果などを反映した人員が台湾に移住したまま改選を行わずに継続してその席を占めていた。中華民国政府の構成は、孫文の三民主義に語られている五権分立の各機関である立法院、行政院、司法院、監察院、考試院と総統および総統の選出などの権限を持つ国民大会があり、これらの機関の相互関係が不明白であったが、長期にわたる戒厳令の下で、機関が独自の機能を大きく発揮することもなく、矛盾が問題になることもなかった3)。このような中央政府の構成は台湾の国民党政権が中国を代表する政権であるという建前を維持する為のものであるが、改選の方法論を持たずに同一グループの人員が長期にわたり権力の行使に携わる結果をもたらすことにより、国民党政権の支配的な地位が固定化された。これが、冷戦体制の緊張関係とともに台湾の一党独裁を維持する根拠となった。台湾地域の政治的な民主化を実現し権力構造を変革するためには、この二重政権の構造を廃止し、政府の統治範囲を台湾の政権が実効支配している地域に限定するような改革を行わなければならなかった。台湾の民主化は1978年に総統に就任した蒋経国の時代に始まったが、二重政権の解消に着手したのは蒋の後継総統となった李登輝である。二重政権解消には少なくとも二通りの方法が考えられる。第一の方法は、中央政府を台湾の規模に合わせて改組して台湾省政府を廃止する方法であり、第二の方法は中央政府を名目化し、台湾省政府に権限を集中する方法である。実際には第一の方法が選択された。4)小笠原欣幸は、台湾省政府の廃止によって政治活動の場を失った宋楚瑜の活動の成果あるいは影響を宋楚瑜現象と呼び、この現象こそが陳水扁や民進党だけでは達成できなかった重要な効果をもたらしたと評価している。彼の言葉を借りると、その現象とは、”natural party of government”としての国民党の解体の一過程をもたらすもので、台湾民衆の大きな変化、「変天」に対する心理的な不安を吹き飛ばしたのだという5)。ここにいう変天は台湾で実現した民主的諸改革を指しているものと思われるが、この評価を素直に受け取れば、台湾の民主化は決して独立を求める民衆の闘いが中国アイデンティティーを破棄し、台湾人としてのアイデンティティーを展開することによりだけ実現されたものではなく、国民党政権の側からの積極的な民主化、政治の改革への意欲もその重要な成立要件であったということになる。そして、私自身はこの要件の意味を重視すべきだと考えている。

民主化と独立

 論理的な考察から推し量れば、台湾の民主化と台湾の独立とは異なる問題であって、両者の間に必然的な因果関係が存在するわけではない。しかし、現実には民主化の過程で有効な野党を生み出したのは台湾独立運動だったために、台湾独立と台湾民主化の主張が重なり合って両者が同一のもののような印象が造成された。この事情をもう少し掘り下げてみよう。 冷戦時代には中国共産党と台湾の中国国民党は激しい対立状態にあって相互に非難しあったが、中国は一つであるという視点では一致していた。1979年の「台湾同胞に告げる書」はこういっている。

 私たちは1700万人の台湾人民に希望を託し、台湾当局に希望を託しています。台湾当局は一貫して一つの中国の立場を堅持し、台湾独立に反対しています。まさにこれは私たちと共通の立場であり、合作の基礎であります。

 この中国政府の態度は、台湾における国民党政権のありかたを肯定したものと受け取ることができる。前述のように、台湾の民主化の実現には国民党政権の内部からの民主化への意思も重要な役割を演じており、また国際的に孤立した台湾当局がアメリカの支持を得るための手段として実現したという側面もあった。特に重要なのは、その民主化の実態には、冷戦時代にアメリカが製造した反共国家群の民主化原則の傾向が影響して、ヨーロッパ諸国の政治視点では必須の社会主義的な観点をもつ政治勢力の存在の保障が欠落していた点である6)。このような状況で、明確な政治的主張として存在して国民党の政治理論に対抗していたものが台湾独立勢力であった。強い抑圧を受けつつも、台湾地域に維持されていた台湾独立勢力の運動7)に対する抑圧を民主化の方向で緩和すれば、台湾独立を主張する政治潮流と民主化を実現する潮流とが重複することになり、あたかも台湾独立と台湾民主化が同一の主張であるように見えることになった。台湾独立論にかかわる論争では 、人種的根拠、文化的根拠、歴史的な根拠、法的根拠など各方面にわたって台湾の中国大陸との同一性あるいは相違性が議論されている8)。しかし、これらの各テーマには台湾は中国社会が中国大陸から分離して存在してきたという主張と台湾が中国に帰属するという主張とが並立しており、各テーマごとに考慮しても両者の主張のどちらが正しいのかを客観的に判定するほどの材料になるとは思えない。今日、日本人の感情に台湾独立論が正当であるかのような印象を与える最大の要因は、1990年代以降に台湾で実現した「民主化」の成果と、その民主化を背景にして台湾に形成されてきたという「台湾人アイデンティティー」、およびそのような民主化の過程や台湾アイデンティティーの形成に対する中国政府の過剰反応であろう。中国側の過剰反応については、個別的な政治の駆け引きの範疇に含まれる要因が多く、ここでその詳細に触れる必要はないだろう。このように、民主化と独立の議論は複雑な相互関係で循環論的に結合して、現在の両岸関係の主要な問題点を形成している。では、台湾の台湾独立を主張する勢力の主張の正当性ないし道義性についてはどうであろうか。

民進党台湾前途決議文に見る民進党のビジョン

 1999年5月8日に開催された民進党第8届第2次全国党員代表大会で採択された「民進党台湾前途決議文」の前文で、民主化と台湾の主権独立との関係を次のように主張している。

 民主進歩党と全民衆の長期にわたる困難な共同の奮闘をへて、国民党に戒厳令と一党独裁の放棄を迫り、民主改革を勝ち取り、1992年の国民大会の全面改選、1996年の総統直接選挙、さらに憲法改正、台湾省政府廃止などの政治改造を達成し、これによってすでに台湾は事実上の民主的な独立国家になった。

ここでは非常に率直に、台湾が独立国家になったという根拠を台湾の「民主化」においている。しかし、このような主張は台湾が大陸よりも優れた政治的な制度を確立しているという主張としては有効かもしれないが、台湾が中国の一部であるという中国側の主張とかみ合ったものではない9)。それは、台湾の経済が大陸の経済よりも発展していて、台湾の一人当たりの国民所得の統計値が大陸のそれよりも何倍も大きいから、台湾が経済的に中国よりも進んでいるというような主張と同様で、台湾が大陸から分離することの必然性を論じていることにはならない。しかし、「民進党台湾前途決議文」をもう少し読み進むと、この宣言のイデオロギー的な面がより明らかになる。

 主権独立と自主は、国家の安全、社会の発展および人民の幸福の前提である。台湾の主権と独立、および中華人民共和国との間に相互の隷属関係がないことは、すでに歴史的な事実であり、また現実的な状態である。これは、台湾の生存条件であるのみならず、民主政治の発展と経済の奇跡の創造の基礎である。

 ここでは、台湾と大陸の間に相互の隷属関係がないという点を、歴史的な自明の事実として主張しているが、台湾海峡両岸の国共両政党および政権がこれまで一貫して台湾は中国の一部であることを主張してきた経緯があきらかであるので、相互の隷属関係の否定というこの主張は、台湾が中国に帰属していないという主張以外には効力のない主張である。隷属関係という用語は、言葉の意味自体に価値判断を濃厚に混入した表現であるが、その感性に訴える効果を無視すれば、この段落は台湾が主権独立国家であるという始めからの主張を、論理的な帰結として導いたものではなく、繰り返し強調しているものであるといえよう。この「隷属」関係の自身による否定は、台湾がいわゆる「民族自決権」原則をもちだして、被抑圧民族の国家的独立を主張する議論が、矛盾していることの表白のようにも見える。感性に訴える性格の隷属関係という用語の妥当性については、言葉の力に流されるのは危険であり、そもそも中国政府が台湾に対して隷属関係を強制しているのかどうかについては、きちんと検証した上で判断しなければならない。宣言はさらに続ける。

 民主進歩党は、1991年の冷戦体制崩壊による、自由、民主、自決思想潮流の全面的な勝利の際に、党綱領改正を行い、台湾の主権独立を主張し、重要で新しい国家のあり方を提出し、憲政体制の修正と新しい国民意識のなどの三項目を主張した。

 ここでは、冷戦体制の崩壊を「自由、民主、自決思想潮流の全面的な勝利」と評価している。この文言の前提としては、冷戦体制が自由、民主、自決思想潮流とそれに対立する思想潮流であったというイデオロギーがあると思える。その対立する思想潮流は大陸の中国政府が所属するところのマルクスレーニン主義的な社会主義思想潮流であろう。実際には、民主化以前の台湾の政権は、この冷戦体制化の対立構造において、反共的な性格を有しながら、ここでいう「自由、民主、自決思想潮流」の陣営の一員としての立場から、大陸の政権と対立し、中国を代表する政権としての正統性を主張していた。しかし私は、1991年に崩壊したソ連を中心としていた社会主義陣営を歴史的に自由民主主義勢力に対する全体主義勢力と単純に評価するような見方には同意できない。第二次世界大戦後に世界規模で発生した植民地主義の崩壊とそれを先導した旧植民地地域の民族主義に対して、社会主義陣営はそれを支援し、帝国主義諸国に押さえられていた植民地の解放について少なからぬ貢献があったことは、どのように議論を取り繕っても否定できないものだからである。中国においても、19世紀以降西欧帝国主義の激しい収奪と抑圧を克服するための困難な努力において、ロシア革命が大きな希望を与えた。19世紀以降の中国の近代においては、民族主義は自明の条理であった。第一の優先順位で求められていたのは、外国帝国主義からの中国の解放であり、その任務をもっとも有効に完遂することができる人々、政治勢力が中国人民を代表する政権となりえたというのが、1949年に新中国が成立するまでの過程であった。しかし、宣言は次のようにいう。

 また、中国人民が過度の民族主義思想の枷を取り除き、誠実に台湾人民の独立自主の要求、自由民主体制下の繁栄と発展への強烈な願望を理解することを希望する。

 この文言を見るかぎり、民進党の展望する台湾前途のビジョンは、冷戦構造においてアメリカを中心とする西側の反共陣営が一方的に主張していた対立構造の延長線上での「民主化」の枠内にあるとしか考えられない。そのような「民主化」を人類の普遍的な価値観として受け入れ、単純に台湾民主化と独立の正当性を承認することには、私は深い躊躇を感じざるを得ない。中国の近代史においては、中国の解放のための努力の第一の目的は民主主義の実現ではなかった。そもそも、民主主義は、歴史的に常に正の価値観で認識されてきた概念ではない。むしろ、民主主義の主張が正当である事例は、すべてその時点における歴史的なある意味では特殊な要因が存在していたというべきである。議会民主制に依拠した権力が、いつでも正しいという思い込みは、中国革命の歴史的な経緯を少しだけでも追ってみれば、たちまち根拠を失うことになる。ここで、民主主義の由来にさかのぼって、その性質を全面的に展開する余裕はないが、西欧帝国主義の植民地支配が民主主義制度の下で実施され、そのイデオロギーの下で維持されていたという歴史的な経緯を見れば、民主主義の制度的な評価に対する制約条件の重要性は明らかである。

中国民族主義は完結できるのか

 もちろん、私は1990年代以降に台湾で実現された民主主義的な制度改革を過小評価するつもりはない。しかし、台湾の「民主化」の意味をさまざまな理論付けで中国の近代史から切り離し、台湾という地域に限定して展開しようとするのならば、私はそのような考え方にいささかの「進歩」性を感じることもできないし、そのような発想には歴史を逆転させていると言う印象を持たざるを得ない。今日、語られている台湾問題には多様な側面があり、近代中国が求めてきた方向性の現代的な帰結が凝縮されている。仮に、中国の現状況が、中国革命当初の目的を実現して、その達成を脅かす勢力の威嚇に怯えないでいられる地点まで進んでいるとするならば、台湾問題は近代中国が走ってきた正義の価値を再検討するための適切な契機であるともいえるのかもしれない。そのような意味で、私は台湾当局と台湾人民の主張や選択に大きな注意を払うのであるが、同様に中国政府や中国人民の対応にも強い関心を持って注視していかざるを得ない。中国の近代史において、中国民族主義に欠落していた重要な要因が台湾問題の進展の中で浮き彫りにされ、そのような側面を中国が克服すべく、あるいは、中国革命が民族解放の達成後の次の目的を展望すべく、新しい方向性を獲得できるのならば、それは中国と台湾に限定されず、アジア全体、世界全体について、好ましい結果を実現できるのではないかと期待させるものだろう。しかし、そのような方向性が仮に存在するとしても、それは台湾の代議制や市場経済と大陸の独裁制と立ち遅れた経済という表面上の幻の対立構造の理解の延長線上に得られるものではない。それは、近代中国の民族主義の正当性を十分に吸収し、その全的な展開を包含した先にしか成立することができないものであるという点が強く留意されなければならないだろう。

1) 中華人民共和国国務院新聞弁公室 「台湾問題与中国的統一」1993年8月北京、前言

2)「台湾問題与中国的統一」、二 台湾問題的由来

黄文雄「主張する台湾 瞑想する日本 アジアをリードするのは誰だ」、光文社カッパブックス、2000年3月、27-29ページ

紀欣「一国両制在台湾《増訂本》」、海峡学術出版社、台北、2004年7月、173ページ

酒井亨「台湾入門」、日中出版、2001年4月、151-152ページ

などこの問題に言及するほとんどすべての文献において、いずれも国共内戦直後の台湾における国民党政権を維持したのは、アメリカ軍である事実が指摘されている。

3) 小笠原欣幸「台湾の民主化と憲法改正問題」1998、1.中華民国憲法の構造

4) と[にすいに余]照彦「台湾の選択」平凡社新書、2000年2月、21ページ「李登輝と宋楚瑜の確執」、同95-104ページ「『二重政府』の不思議−経済学上のナンセンス」

5)小笠原欣幸「2000年台灣總統大選中的「宋楚瑜現象」之研究

6) 田中宇「米中論 何も知らない日本」光文社新書、2002年6月、121-124ページ「選挙をやれば共産党が勝ってしまう」

7) いわゆる台湾独立運動の展開史については、森宣雄「台湾/日本-連鎖するコロニアリズム」潟Cンパクト出版会、2001年9月、酒井亨「台湾入門」などを参考にした

8) たとえば、台湾の旧宗主国であった日本が第二次世界大戦の終結時に受諾したポツダム宣言で言及されているカイロ宣言は、日本国が中国(Chinese)から盗取した(has stolen)した台湾を中華民国に返還することを目的とすると言明しているが、これに対して、

 ・中華民国と中華人民共和国は違う

 ・カイロ宣言は法的な拘束力を持たない宣言であり、法的に有効な国際合意は、1952年のサンフランシスコ講和条約である。

というような反論が試みられる。

また、中国が歴史的に台湾を統治した事実があったのか、台湾語と呼ばれる福建語は、中国語であるのかどうか、という議論でも、北京語と福建語の相違はドイツ語とオランダ語の相違よりも大きいという議論もあるが、それゆえに台湾語は中国語ではなく、台湾は中国ではないという議論が客観的に展開されるわけではない。これらの議論は、一つ一つそれぞれに興味深いトピックではあるが、このような議論を積み重ねることによって台湾の帰属を客観的に論証しようという立場には、根本的に無理があると思える。

9) もちろん、歴史的な背景を考慮したうえでの政治体制については、諸条件から分離された抽象的な対象として比較することは不適当であり、単純に議会民主主義の制度の整備をもって優れた制度と判断できるという主張には、反論の余地が大きいことにも留意する必要がある。

参考文献

[1] と[にすいに余]照彦「台湾の選択」平凡社新書、2000年2月

[2] 孫文著、安藤彦太郎訳「三民主義(上下巻)」、岩波文庫、1957年初版

[3] 楊新一「争 台湾的主権過去現在未来」胡氏図書出版社、2000年2月、台北

[4] 紀欣「一国両制在台湾《増訂本》」、海峡学術出版社、2004年7月、台北

[5] 曹長青「獨立的価値」、玉山社出版事業股分有限公司、2004年12月、台北

[6] 横山宏章「中華民国」、中公新書、1997年12月

[7] 田中宇「米中論 何も知らない日本」、光文社、2002年6月

[8] 酒井亨「台湾入門」、日中出版、2001年4月

[9] 森宣雄「台湾 日本 連鎖するコロニアリズム」、インパクト出版、2001年9月

[10] 黄文雄「主張する台湾 瞑想する日本 アジアをリードするのは誰だ」、光文社カッパブックス、2000年3月

[11] 李登輝「台湾の選択」、PHP研究所、1999年6月

[12] 小笠原欣幸「台湾の民主化と憲法改正問題」1998、

http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/ogasawara/paper/paper2.html

[13] 小笠原欣幸「2000年台灣總統大選中的「宋楚瑜現象」之研究」、

http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/ogasawara/paper/cpaper1.html

[14] 台湾問題資料室、

http://konansoft.jp/zenrin/taiwan_library/index.html


2005年10月9日猛獣分子

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