ここに紹介する文献は1970年代のビラで、発行は『「善隣」を中国に返還する会』となっており、日中学院内にあった組織です。このビラの主張は、善隣学生会館の位置付けについての、最も進んだ考え方を述べているものではないでしょうか。日中国交回復後、日本の政府関係者が直接に中国との外交関係にかかわるようになり、また中国側の改革開放政策もあって、日中関係も1970年代のそれから見るとずいぶん様変わりしたように見えます。日中友好会館の建設に当たっても、この文献で主張されている正論がどこまで貫徹されたのかを考えると、不十分な点も多いのではないでしょうか。そのようなことを感じました。今後の日中関係の進展に期待したいと思います。
2003年1月13日 猛獣文士

中国侵略、敵視の遺産『善隣学生会館』を中国に返還しよう!


1.はじめに

 1972年秋に日中国交が回復し、さらに今年の秋には「日中平和友好条約」の交渉が開始されようとしている。また今秋開催された中国展覧会を通して、中国の社会主義建設の模様が紹介された。しかし、このような時こそ日本人の犯してきた戦時中の歴史を問い直し、これからの歩みを一人一人が決めていかなければならない。

 いっぽうでは、「刑法改悪」「靖国神社法案」といった反動への道が進められ、「韓国」「東南アジア諸国」へは「経済」侵略がますます強められている。それは、新たな「大東亜共栄圏」ともいえる。中国は、日本に対して「人民には戦争の責任がない」という立場をとっている。たしかに「一億層懺悔」方式の戦争推進者、資本家たちの責任を国民全体に転嫁するやりかたには反対である。しかし、戦争を遂行したのはその人民でもあり、中国人、朝鮮人、東南アジアの人々に対し、抑圧民族対被抑圧民族として対したことを忘れてはならない。だが、あくまで戦争推進者、資本家いわゆる国家権力側と、戦争にかりだされた人民とを区別すべきである。人民には二重の闘い、つまり「内なる闘い」と「外なる闘い」が強いられる。我々の「内なる闘い」は、歴史を学び、あの悲惨な血で塗られた侵略を繰りかえしてはならぬことを誓い、自らの戦争の責任を追及し、自らを思想的に変革することである。「外なる闘い」として戦争の責任を具体的に追及する。たとえば戦犯をのしあがらせない(岸を首相とした国民の責任を考えよ!!)中国関係でいうならば、軍事通訳を一片の反省もなしにのさばらせない、東亜学院等の戦争遂行の補助機関を復活させない、戦争後の処理を行っていく等々である。

 以下で「善隣学生会館」の簡史を紹介するが、我々が善隣学生会館を中国に返還するということは、この「内なる闘い」(侵略戦争の罪悪を深く認識していく)と「外なる闘い」(具体的に中国に対して日本人として戦争責任の追及等戦後処理を行っていく)の二つの面から推し進めていくべき事柄である。

2.「善隣学生会館」の歴史

 一、「満州国留日学生会館」から戦後へ

 善隣学生会館の前身―満州国留日学生会館は、1938年(昭和13年)、日本の中国全面侵略戦争の口火となった「7.7」盧溝橋事件のあったその翌年、“一心一徳不可分”たる日「満」両国共同の事業として建てられた「満州国」留学生用施設である。そして、陸軍、外務、文部三者の監視のもとで、日本帝国主義の中国侵略に都合のよいカイライ「人材」を養成するために、さらには、留学生の反“満”抗日思想を弾圧し監督強化する目的で建てられたものであった。

 会館は「満州国」政府がその基本財産を出資し毎年の運営費として補助金を出しておりながら、日本の法人として登記され、管理運営もほとんどすべて“日系満人”(日本人)の手によって行われた。しかも、陸軍少将の館長を筆頭に、関東軍、陸軍省等が一貫して関与するという横暴ぶり。

 日本敗戦による「満州国」崩壊とともに、「満州国留日学生補導協会」(途中改称した)は1945年11月10日解散、そして帰国できなかった中国人留学生は、建物には《中華学友会館》名を、寄宿寮には《後楽寮》の名をつけて自主管理していく。

 いっぽう、法律的には「会館」は「満州国留日学生補導協会」解散後、四名の清算人による清算事務が行われることになっていたが1948年2月連合国総司令部民間財産管理局(CPC)の清算停止処分をうけた。この事実は連合国側がこの「会館」を中国財産と認定して行った処理に他ならない。そしてこれ以後は外務省に仮の管理を委託させるのである。

 二、でっちあげ団体「善隣学生会館」の出現と歴史

 1949年中華人民共和国の成立、1950年朝鮮戦争勃発を契機に、日本は再び軍国主義への道を歩み出す。1951年対日講和条約、日米安保条約、日台条約調印という一連の反中国政策を行ない、日中戦争の未処理を解決するどころか、戦争状態を継続したまま、という日中の関係が続くのである。

 このことが「善隣学生会館」に如実に反映する。「会館」は1953年3月、対日講和条約(これには中国は加盟していない!)を盾に外務省の管理から前の清算人に渡され、同日直ちにデッチあげの任意団体「善隣学生会館」に譲渡してしまったのである。財産権に関する一片の説明すらなく、しかも戦時中その「会館」を侵略に使用していった歴史を抹殺して、そのことの反省もなしに反中国政策を継続していくのである。

 いわゆる60年安保を契機としてアメリカ帝国主具と結託した日本帝国主義の反中国政策が強化される。1961年4月「善隣学生会館」側から「現在不法占拠中の中国人を会館から立ち退かしめ……」として、立ち退き要求を出してくるのである。これに対し寮生、および華僑総会の人達は「善隣学生会館」が中国財産である、少なくとも日中国交が回復される時期までは財産権問題は保留すべきであるとの認定のもとに「善隣」側と闘争する。

  《第二次後楽寮事件》

 この闘いを支援するため、日中関係団体を中心に、「後楽寮生を守る会」を組織して、日中両国人民の共闘体制ができあがるのである。

 1962年2月和解が成立し、6つのとりきめがなされた。その中で財産権については、国交回復後日中間で処理する、「善隣学生会館」を中国との文化交流に重点を置いて使う、商社は立ち退く等がとりきめられている。

 1967年3月には、日本共産党のなぐりこみによって後楽寮生に対し重傷4名を含む20数名の重軽傷者を出す大流血事件まで、この会館でひきおこされるのである。

3.「善隣学生会館」を中国に返還しよう

  ――「善隣」理事の陰謀を許すな――

 日中国交回復後も、デッチあげ団体「善隣学生会館」の理事は依然この会館に居すわり続けている。そして、中国側に対し何ら「善隣学生会館」の戦後処理を行なおうとする態度を示していない。もともと、いま述べてきたように「善隣学生会館」の理事の存在は成り立ちからいって不当なものであるし、なおさら国交回復後、日中間で「善隣学生会館」の戦後処理を行なう1962年のとりきめからいっても、彼らの存在根拠は消滅しているそうであるのに、このデッチあげ団体「善隣学生会館」の理事は、国家権力と結びついて四億円の資金を導入し、再び「善隣学生会館」を「アジア」侵略の一拠点にしようと謀んでいる。(各理事の主観的意図を超えて、そういう作為がなされている。この点は、中国語検定問題と類似をなす。)

 さらにその上、1962年のとりきめである商社の立ち退きを実行するどころか、多くの商社にビルを貸して、甘い汁を吸いつづけているのである。我々はあの悲惨な血で塗られた侵略を再度繰りかえしてはならぬことを心に刻み、ソノタメニモデッチあげ団体「善隣学生会館」理事の陰謀を断固粉砕し、日中両国人民の相互理解と平和のために、中国に「善隣学生会館」を返還しよう。

 さらに、「善隣学生会館」を中国に返還する中で、再び侵略に加担しない誓いを新たに勝ち取っていこう。歴史は二度繰り返してはならない。

「善隣」を中国に返還する会
(日中学院内 03-294-0729)

【付記】

 我々の日中学院は「善隣学生会館」の付設期間として存在している。日中学院の前身ともいえる倉石講習会、日中学院の時代を通して「善隣学生会館」と切っても切れない関係で戦後史を歩んできた。我々は最初、日中学院で中国の歴史言語を学ぶなかで多くの問題をつきつけられ、何が本質的な問題なのか少数で研究会を始め、問題の鍵を解こうと試みた。東亜同文書院の歴史、「善隣学生会館」の歴史を学ぶ中で、我々もいま、一歩誤れば同じ侵略の歴史を繰り返すす当事者になるのだ、ということに気づき何度も学習会討論会を重ねていくなかで「善隣学生会館」を中国に返還すべきであるという一致のもとに返還運動を始めることにした。第一歩として、中国研究所の了解のもとに「中国研究月報」を再版し我々の主張を沿えてここに見解を明らかにしたいと思います。尚「善隣学生会館」理事会理事は、以下の14名です。佐藤信太郎、森照、笹森順造、倉石武四郎、岡崎嘉平太、谷川徹三、中島健蔵、土田豊、日高信六郎、穂積七郎、高塚嘉一、伊藤日出登、高野順吉、前田充郎。

 この問題を共に考えていこうとする諸兄は上記に連絡を!!

(日中学院内の一九七〇年代のビラ)

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