善隣学生会館事件とその時代背景

 1952年、中国を代表する政権がまったく参加しなかったサンフランシスコ条約の発効により「国際社会」に復帰した戦後の日本は、「自由主義」諸国の一員として、「共産主義」諸国との対立、東西対立の構図の中に組み込まれ、1960年代にはこの構図の中で経済的な復興と発展の道を進んでいた。

 1945年の日本の降伏後、中国では国共内戦になり、抗日戦争の間、中国を代表する政権であった国民政府が敗れて台湾に退き、1949年に中華人民共和国政府が成立した。しかし、中国共産党の力によってつくられたこの政権は、アメリカをトップにいただく西側陣営が優位を占める国際社会には承認されず、台湾島を実効支配する国民政府が中国全土を代表する政権として、国連の議席をながく保ちつづけた。日本の政府も大陸の政権を承認せず、日本と中国の間の交流は、民間の人脈や非政府機関を通して細々とつながっているだけという状態が、1972年まで23年間継続することになる。

 1950年代、共産党が政権を担っている中華人民共和国は、100年間にわたって続いた帝国主義列強の蹂躙、日本軍国主義の残酷な侵略戦争による破壊と荒廃、さらに日本が「満州国」に建設した工業施設をソ連が持ち去ってしまうという悪条件の中、西側諸国とのきびしい対立と封じ込めを抱えながら、国家建設を急いだが、大躍進といった性急な政策の失敗もあり、「社会主義の優位性」や“無謬の共産党”の指導をもってしても、経済建設、国家建設で奇跡を起こすことはできなかった。

 第二次大戦後、アジアアフリカなどの植民地・半植民地が次々と独立したが、独立をめぐる旧宗主国との戦争・闘いを指導する人々の間に共産主義者がある程度の割合を占めていた。旧宗主国内の反体制派である共産主義が、宗主国に抑圧支配されていた植民地の解放の理論に結びつき、国際共産主義の祖国であったソ連の国際政策にも民族解放という理念が盛り込まれていたからである。この場合、植民地地域の共産主義は、一面ではマルクスレーニン主義という特定の世界観にもとづく世界革命運動の一部であると同時に、他民族に支配され、抑圧されている植民地における民族解放の運動でもあった。アジアの社会主義国として成立した中華人民共和国は、1950年代、アジア諸国の共産主義運動の中心としての役割をもつようになっていったが、同時に反共勢力からの戦争の威嚇の標的となった。

 中華人民共和国の建国後、翌1950年には朝鮮戦争が始まり、中華人民共和国は義勇軍を派遣して、アメリカ軍を主体とする「国連軍」と、直接、干戈(かんか)を交えた。このとき、国連軍最高司令官マッカサーは、中国本土に対する核攻撃を主張し、アメリカ大統領トルーマンはこの主張を受け入れず、マッカーサーは解任された。1953年7月27日、休戦協定が調印され、休戦が成立したが、この休戦は単に戦闘行為の停止にすぎず、軍事停戦境界線をはさんで、朝鮮半島の緊張はその後延々と継続し、今日にいたっている。このことに象徴されるように、中華人民共和国の成立後の20数年間は、困難な国内建設に加えて、アメリカを中心とする強力な「自由主義」陣営諸国との戦争の脅威にさらされつづけた時期であった。

 このような情勢の下、戦後1960年代までの多くの日本人にとって中国は、体制の異なる、国交のない、情報の入らない異質の国であった。この「共産圏」の中国との人的経済的交流を守っていた人々の中で、日本共産党に属する人たちが大きな割合を占めていたのは、ある意味当然である。ところが、西側から見て1950年代半ばまでは「一枚岩」に思えた「共産主義陣営」の中で、1950年代後期に中ソ論争が始まり、その後ほどなく、中国共産党とソ連共産党の関係は修復が不可能なほどに悪化した。それ以前から国際共産主義運動のあまり的確とはいえない指導のために失敗を繰り返していた日本共産党は、国際共産主義運動のこのような混乱の中、自主独立路線を採用し、中国やソ連の共産党とは距離をおくようになった。

 日本共産党と中国共産党との関係は、1965年までは友好的であったが、1966年、中国共産党毛沢東主席が文化大革命を号令した年に断絶状態になり、それまで日本共産党がかなりの役割を占めていた日中友好運動にも、大きな混乱が発生した。日本共産党と中国共産党の断絶は、中国共産党が中国の政権党であるという事情から、日本共産党と中国の対立に直結したからである。善隣学生会館の流血事件が発生したのは、このようにして、国交のない日本と中国の間の日中友好運動が大混乱に陥っていた1967年の2月28日から3月2日にかけてであった。

 善隣学生会館は、旧「満州国」から日本への留学生のための寮として旧「満州国」政府拠出の財団法人満州国留日学生補導協会が建設し、運営していた「満州国留日学生会館」を、昭和28(1953)年に設立された財団法人善隣学生会館が引き継いだ鉄筋5階建ての建物であった。この建物は、その3,4階を中国人学生の宿舎とし、1,2階は日中友好の事業のために使用されることになっていた。なお、財団法人善隣学生会館は昭和58(1983)年に改組され、名称も「財団法人日中友好会館」と改められ、建物は昭和59(1984)年から昭和63(1988)年にかけて建て直された。

 1967年当時、同会館3,4階には在日中国人(華僑)学生の寮生が住み、1階には日中友好協会の本部事務所があったが、日中友好協会は前年の日中両共産党の関係断絶をうけて、分裂状態になっていた。つまり、「1966年10月25日、第13回常任理事会においてついに日中友好協会は分裂し、日共の反中国政策に反対する協会役員は、会館を出て新たに日中友好協会(正統)本部を結成した(中国研究月報1968年11月号36ページ)」のである。善隣学生会館内に残った日中友好協会には、日本共産党の反中国政策をそのまま実行しているとの批判が浴びせられるようになったが、この考え方を共有する同会館3,4階の在日中国人学生の自治会(中国留日学生後楽寮自治会)は、当時の中国の紅衛兵の方法にならい、壁新聞(大字報)を会館に張り出して、「(日本共産党系の)日中友好協会は日中友好を推進せず、反中国活動を行っているのだから、日中友好を目的とするこの会館から出て行くべきである」という見解を主張した。最初にこのような壁新聞が張り出されたのは1966年11月であり、このような事情を受けて、日中友好協会の協会員と中国人寮生の関係は当然のように悪化していった。

 1967年2月28日の夜にトラブルが発生し、3月2日まで続いたが、その事実経過については、双方の主張がかなり食い違っている。双方の主張から、ごく大雑把に共通点を拾い出してみると、

 まず最初に、中国留日学生後楽寮自治会が張り出した壁新聞を、協会の会員が破ったかどうかでトラブルが発生した。

 その後、混乱が続いたが、3月2日、日本共産党の動員部隊が華僑学生と支援の日本人を日本共産党側の主張によれば「正当防衛権の行使」として、排除した。このとき、華僑学生側の主張によれば、凶器による暴行が行われ、華僑学生側に重傷者が出た。

 この「正当防衛権の行使」に至る過程で、日本共産党側の主張では、華僑学生側からの襲撃と不法監禁があったといい、華僑学生側の主張では、そのようなものはなかったという。

 というようなことになるのであろうか。実にこの事情を、簡単にここでまとめることは困難である。したがって、その詳細については言及しないが、その事実関係を少しでも正確に把握したいとうのがこのホームページの趣旨であるので、資料が完全に網羅された時点で、私(猛獣文士)がそれを整理し、それを結論的にまとめる欄を作成する積りである。

2000年8月20日 猛獣文士
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