台湾問題と中国の統一

1993年8月:中華人民共和国国務院新聞弁公室


一、台湾は中国の分割できない一部分である

 台湾は中国大陸の東南縁に位置し、中国最大の島であり、大陸と不可分の整合体である。

  台湾は古代から中国に属していた 。古く、台湾は夷洲、琉求と称された。大量の史書及び文献に、中国人民が早い時期から台湾を開発していた情景が記述されている。現在から1700余り前、三国時代の呉の人沈瑩の「臨海水土志」などにそのような記述があり、これらは世界最古の台湾に関する文字の記録である。紀元3世紀と7世紀に、三国孫呉政権と隋王朝の政府は、前後して万単位の人員を台湾に派遣した。17世紀にはいると、中国人民の台湾開発はますます大規模になった。17世紀末には、大陸からの台湾開拓者の数は10万人を超えた。西暦1893年(清光緒19年)には、総数は50万7千戸、254万人あまりに達した。二百年間で25倍に増加したのである。彼らは、先進的な生産方式を伝え、南から北へ、西から東へ、「篳路襤褸」、「抜荊斬棘」の創業の困難を克服して、台湾の開発過程を著しく加速させた。この歴史が有効に説明しているように、台湾は中国の他省の地域と同様に、中国各族人民が開発し定住していった地域である。台湾社会の発展は、初めから終わりまで中華文化の伝統の延長であり、日本が侵略し占領した50年間においても、この基本的な状況は不変であった。台湾の開拓と発展の歴史は、当地の少数民族を含む中国人民の血と汗と智恵の結晶である。

 中国の歴代政府は前後して台湾に行政機構を設立し、管轄権を行使した。古くは紀元12世紀中葉に、宋朝の政府が澎湖に守備部隊を派兵し、澎湖地区を福建泉州晋江県の管轄とした。元朝の政府は澎湖に行政管理機構「巡検司」を設置した。明朝の政府は、16世紀中後期に、一度廃止していた「巡検司」を復活させ、外敵の侵犯を防ぐ為に澎湖に増兵した。1662年(清康熙元年)に、鄭成功は台湾に「承天府」を設置した。清朝の政府は、逐次、台湾の行政機構を拡大し、台湾に対する管理を増強した。1684年(清康熙23年)に、「分巡台厦兵備道」及び「台湾府」を設置し、「台湾」(現在の台南)、「風山」(現在の高雄)、「諸羅」(現在の嘉義)の三県を設置し、福建省の管轄に属するものとした。1714年(清康煕53年)、清朝の政府は要員を派遣し、測量して台湾地図を作成し、全土の面積を計算した。1721年(清康煕60年)、「巡視台湾監察御史」を増設し、「分巡台厦兵備道」を「分巡台厦道」と改称した。その後、さらに「彰化県」と「淡水庁」を増設した。1727年(清雍正5年)、また「分巡台厦道」を「分巡台湾道」と改め(後に、また「分巡台湾兵備道」と改めた)、「澎湖庁」を増設し、「台湾」を政府の統一的な名称と定めた。1875年(清光緒元年)、清政府は一歩進めた台湾の経営管理を行う為に、「台北府」と「淡水」、「新竹」、「宣蘭」の三県および「基隆庁」を再増設した。1885年(清光緒11年)、清政府は正式に台湾を単一の省と区画し、劉銘伝を長として巡撫に任じ、行政区を拡大し、3府1州で、11県と5庁を領するものとした。劉は在任中に、鉄道を敷設し、鉱山を開き、電線を架設し、商船を製造し、企業を起こし、西学の教育機関を創設し、台湾社会の経済文化の発展を大々的に推進した。

 1945年、中国人民が抗日戦争に勝利した後、中国政府は台湾省の行政管理機構を復活した。

  海峡両岸の中国人は外国の台湾侵略と占領の進行に反対して、長期の闘争を継続した 。15世紀後期から、西方の植民地主義者が大挙しておしかけ、植民略奪を行った。1624年(明天啓4年)、オランダの植民者が台湾南部を侵して占領した。1626年(明天啓6年)、スペインの植民者が台湾北部を侵し、占領した。1642年(明崇禎15年)にオランダは、スペインが占領していた台湾北部を奪い、両岸同胞は外国の植民者が台湾の侵略と占領を進めることに反対するために、武装蜂起を含む各種の方式の闘争を行なった。1661(清順治18年)、鄭成功が民衆を率いて進軍し、翌年、台湾に蟠踞するオランダの植民者を駆逐した。

 1894年(清光緒20年)、日本は中国侵略の「甲午戦争(日清戦争)」を発動した。翌年、清政府は戦いに敗れ、日本の威圧下で国辱的な不平等条約の「下関条約」を調印し、台湾を割譲した。このニュースが伝わると、憤りが国中に広まった。北京の会試場では台湾を含む18省からの千人余りの挙人が「公車上書」を行なって、台湾割譲に反対した。台湾全省の嘆きの声で天が震え、ストライキが行なわれた。台湾軍務を処理していた清軍の将劉永福は台湾同胞とともに、必死の抵抗を戦った。中国大陸の東南各地の居住民がこの闘争を支援し、あるいは兵士の給与を義捐金として送り、あるいは隊を結成して台湾に赴き、日本の侵略に反抗した。日本が台湾を支配していた期間にも、台湾同胞は一貫して不屈の英雄的な闘争を堅持した。初期には、彼らは義軍を組織して武装遊撃戦を行い、前後7年間、これを継続した。ついで、辛亥革命で清朝が覆された後、彼らは大陸の同胞と志を一つにして結集し、前後、十数回に及ぶ武装蜂起を敢行した。20世紀の20年代と30年代には、島内は日本の植民地統治に反抗する大衆運動が非常に激しくなり、台湾全土を席巻した。

 1937年、中国人民が全民族の抗日戦争を開始すると、中国政府は「中国対日宣戦布告」で、すべての条約、協定、共同交渉および中日関係は一律に廃止すること、さらに「下関条約」は廃止対象に含まれることを、内外に対して明確に通告した。この布告では、さらに詳細に、中国は「台湾、澎湖、東北四省の領土を回復する」と宣布した。中国人民が8年間の困難で苦しい抗日戦争をへて、1945年に最後の勝利を獲得し、台湾の失地を回復すると、台湾同胞は爆竹を打ち鳴らして喜びに舞い、祖国の懐に回帰する偉大な勝利を慶祝し、祭祀で祖先にこれを告げた。

  国際社会は台湾が中国に属することを公認している 。中国人民の抗日戦争は世界の反ファシズム闘争の一部分であり、世界人民の広範な支持を得た。第二次世界大戦中、ドイツ、日本、イタリアのファシズムに反対するために、中国はアメリカ、ソ連、イギリス、フランスなどと連合国を結成した。1943年12月1日に、中国、アメリカ、イギリス三国が署名したカイロ宣言は、「右の同盟国の目的は、日本国から、1914年の第一次世界戦争の開始以後において日本国が奪取し又は占領した太平洋における一切の島嶼を剥奪すること、並びに満州、台湾及び澎湖島のような日本国が中国から盗取した一切の地域を中華民国に返還することにある。」 と述べている。1945年7月26日に、中国、アメリカ、イギリス三国が署名した(後にソ連が参加)「ポツダム宣言」はまた、「カイロ宣言の条項は履行される」と確認している。同年8月15日、日本がポツダム宣言を受諾した後の「日本降伏文書」は、「茲に、合衆国、中華民国及びグレート・ブリテン国の政府の首班が、千九百四十五年七月二十六日ポツダムに於て発し後にソヴィエト社会主義共和国連邦が参加したる宣言の条項を...受諾す。」と規定している。10月25日、連合国中国戦区台湾省の降伏を受け入れる儀式が台北で挙行され、中国政府の代表が降伏を受けて、「本日より、台湾および澎湖列島は正式に中国の版図に組み入れられ、一切の土地、人民、政務は中国の主権の下に置かれる。」と宣告した。ここにいたって、台湾、澎湖は中国の主権管轄下に帰ったのである。

 中華人民共和国成立以来、157カ国が前後して中国と外交関係を樹立し、そのすべての国が、中国はひとつしかなく、中華人民共和国政府が中国の唯一の合法政府であり、台湾は中国の一部であることを承認している。

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