(1) |
(2) |
早朝の七時 |
正午前後 |
午後四時 |
夜にかけて |
(3) |
「赤旗」の言い分 |
ごまかしと捏造 |
ことのなりゆきは、きわめて単純かつ明白です。
それは、日本共産党中央さし廻しの暴徒が、計画的に、鉄兜をかぶり、乱闘服に身を固め、棍棒をふるって、素手の中国人学生に、襲いかかりなぐりつけ、これを半殺しにした、という事件です。
一九六七年、三月ニ日、午後四時のできごと。
場所は東京都文京区後楽一ノ五ノ三、善隣学生会館(後楽寮)の一階。
この結果、中国人学生とそれを支援していた日本人青年などの側に、三月二日だけで
任政光 | 頭部重傷、内臓出血、全身負傷 |
簡 仁 | 頭部重傷 |
薛永祥 | 頭部腹部打撲 |
王政明 | 頭部腹部打撲 |
王俊英 | 右眼瞼裂傷、頭部腹部打撲 |
劉道昌 | 頭部腹部重傷 |
近野省三 | 頭蓋骨陥没 |
井垣清明 | 頭部重傷 |
岸良鉄石 | 頭部重傷 |
(このほか名前の発表をはばかる人びとがあります) |
などの重軽傷ニ〇数名という犠牲者(午后四時の大襲撃の前後の小競り合いによるものをふくむ)がでました。
被害者である中国人学生の側が急拠発行したパンフレットに、
「日共修正主義グループは善隣学生会館の一角をかすめとっているニセ『日中友好協会』を反中国の拠点にし、二月二十八日から三月二日にかけて連日、暴徒を指揮して、華僑青年学生に対し、また、暴虐に抗して闘っている華僑青年学生を支援するためにかけつけた日本の友人に対して気違いじみた迫害をくわえ、重傷七名を含むニ十数名の負傷者を出すというおどろくべき流血事件をひきおこしました。」(善隣学生会館中国留日学生後楽寮自治会発行「日共修正主義グループの華僑青年学生に対する襲撃事件の真相」)とある通りです。
ところが、この明白な事実に対し、全く逆な見方をし、全くさかさまな言い方をしているのが「赤旗」です。単なる報道記事ではなく、赤旗はその「主張」(三月四日)で
「……在日華僑学生、日本中国友好協会の脱走分子・反党対外盲従分子・一部の在日華僑などは徒党をくんで、連日日本中国友好協会を襲撃し……なぐるけるの暴行をくわえ……重軽傷をおわされたものは判明しているだけでも十数名に達しています。日本の首都東京での一部の外国人による、このような白昼の傷害行為は、まったく常識では考えられない無法きわまるものです。」
と書いています。
互いに、相手側を襲撃者といい、互いに、自分が被害者だと主張しているわけです。
そこで、まず手はじめに、事件の経過を事実どおりに調べてみます。
三月二日の事件についてだけ、事実を追っていくと、次のようなことです。
早朝の七時 前夜から不寝番をしていた四人の中国人学生が、朝七時頃、表がさわがしいので出てみると、民青のマイクロバスでのりつけてきたニ、三〇の日本人がぞろぞろと降りたち、指揮者らしい一人はトランシーバーを持って、しきりと何か指図しています。なにごとならんと見守っていると二〇人ばかりが一団となり玄関に殺到し、はいってくるやいなや守衛になぐりかかりました。
「私はこの会館の守衛です、用事があったら私に言って下さい。」
と呼びかけると
「なにが守衛だ、売国奴!」
という罵声が飛び、鉄拳が二つ三つとふりおろされたのです。
中国人学生はこの暴挙に対し抗議した。
「何をするんだ」
「うるさい」
「なんの用事だ」
「うるさい」
「君たちはどこの者だ」
「言う必要なし」
との押し問答になり、一人の中国人学生はみんなを起こしにとって返し、かけつけた一〇人ばかりで
「何用だ」
「問答無用」
ともみあいになったところ、いきなり数名がなぐりかかり、薛永祥、王政明、王俊英などが負傷しました。
会館の守衛がこれをみて、すぐさま警察署に一一〇番で急報、「暴徒が乱入して騒いでいるので至急きてくれ」と頼んだが、目と鼻の先の富坂署からはなかなかきません。
そのうち中国人学生側は多勢に不勢で段々に押しこまれてきました。
「これはかなわんと思い、とっさに、すぐ後の手洗所に飛びこみ、そこのバケツで水を運びだ連中の頭からぶっかけてやりました。そうしたら一瞬相手はひるんで止まりました。これはよいというので、ニ、三人が入れかわり立ちかわり、バケツを運んでは水をぶっかけてやりました」と中国人学生は語っています。
七時半頃、やっと一台のパトカーがきたので、警官に「さっき眼前で行われた暴力団の検挙をしろ」と迫りました。しかし警官は、逆に「調書をとるから警察署に出頭してくれ」と中国人側に言いだしました。中国人学生たちは、「それではまるでさかさまだ。犯人はいま室内に逃げこんでいるのだから、すぐ被害者に首実検させろ」と強く要求しました。警官は「とにかく調べてみる」と、協会室内に入り、そのまま、いつまでたっても戻ってきませんでした。そのうち侵入者たちの一部は道路の方にひきあげ、一部は協会事務室内にぞろぞろ入りこみ、何がなんだかわからない状態になってしまいました。負傷者のうち、王政明と王俊英はすぐ救急車で病院にはこばれました。
しかし、日本当局の救急車は、負傷した王俊英を病院に運び治療をうけさせたのち、こともあろうにそのまま警察署に連行、本人の苦痛もかえりみず長時間の訊問をしています。寮ではかれの行方をさがし、署にいると聞いて、寮生が迎えにいったところ、警察は「そん人(ママ)はきていない」といつわっています。さらに確実にいることを確かめた上で、厳重に抗議に行って、はじめて王俊英は帰ってくることができました。
一方玄関ホールは水びたしになってしまいました。そこへ日中友好協会の森下幸雄常任理事は、
「便所にいくんだ、どけ、どけ」
と妙に力みかえり、そっくり返って歩いていき、殺気だって三三五五立っている人ごみを押しのけつきとばさんばかりの不自然な歩き方で通りぬけようとし、水で濡れて滑りやすくなっているコンクリートに足をとられ、ひどい勢いですってんコロリンと転んでしまいました。ちょっとの間起きあがれぬほどのみごとな転びようでした(「毎日新聞」の二日付朝刊によれば「一週間」程度のケガとあります)。
早朝の事件はこのようなものでした。
ところが、これを、侵入側に言わせると、
「二日の朝は、正面玄関から協会事務所に行こうとした数名の支援の人たちに(中国人学生が)おそいかかりまた一人で便所に行こうとした協会の森下常任理事を玄関ホールで十数名がよってたかって暴行し、三週間の重傷を負わせました」(日本中国友好協会発行「外部勢力による干渉と暴行は許せない」ニ頁)となるのです。
午前中 午前八時頃から、日本共産党の内野竹千代、高原晋一、青柳盛雄、岩間正男、松本善明などの幹部連が続々とつめかけ、同時に、緊急動因をかけられた党員や民青員がかけつけ、会館をとりまく集団は五百名以上にふくれあがってきました。
この集団による圧力はまことに奇妙なものでした。というのは、ごく一部の者は、
「教条主義、ひっこめ」
「外国の干渉反対」
「紅衛兵の暴力反対」
「中国人は中国へ帰れ」
日共幹部たち(右から)野村正太郎、岩間正男、梅津四郎 |
などと中国を攻撃する意味のことを叫んでいましたが、大部分のやみくもに動員され、かきあつめられた者たちは、なんのために、誰を敵として、何をしにきたかも全くわからず、さりとれ、なにか気勢をあげねばならぬので、
「沖縄を返せ」
「軍事基地反対」
「アメリカは出て行け」
「アメリカのベトナム侵略反対」
などとおよそ関係のないことを叫んでいました。このことは、中国人学生たちの感情をいたく刺戟しました。はじめ「アメリカは出て行け」
などの唱和に対し、中国人学生たちは「アメリカ大使館に行ってどなれ!」とやり返してました。しかしそれでもやみません。
日共幹部たち 4人の右青柳盛雄、左松本善明 |
「沖繩を返せ」
「アメリカ大使館へ行って、やれ」
「軍事基地反対」
「敵をとりちがえるな」
「アメリカは出て行け」
「ここをどこだと思っているのだ」
「ここは日本の領土だ、中国人は中国に帰れ」
こういう、全くかみ合わないやりとりの末に、いつの間にか、五〇〇名の群集は「ここは日本だ、アメリカは出て行け、中国人は出て行け」という排外主義丸出しの唱和をするにいたっていました。
そして、群衆の中からは
「チャンコロは帰れッ」
という言葉までがとびだしはじめたのです。
「弁当を差し入れさせろ」
と、段ボールの大きな箱を、いくつもいくつも玄関前に積みあげました。会館当局側は、昨日、と同じように、会館理事者側に先ず渡し、その手で協会内部に運び入れたらよい。と主張しましたが、今日に限って
「どうしても直接手渡す」
と頑張って聞きません。中国人学生側の強い態度であきらめたかれらは、それらの段ボールの箱を窓から協会室内にせっせと運び入れはじめました。あとになってわかったことですがその箱の中身は、弁当とは真赤な嘘でヘルメットだったのです。
そのうち、なにものかの指揮で群集は二手に分かれ、一手は道路に面した協会の窓から室内に続々と人間を送りこみ、一手は正面玄関から弁当の差しいれと称し押しいろうとし、玄関にいる中国人学生らをはさみうちにするようになってきました。
中国人学生らはスクラムを組み、女子学生はそのうしろからあと押しをするなどして防ぎました。協会事務室の中から出撃してきた連中が「弁当よこせ」のシュプレヒコールをしながらはさみうちにしてきました。中国人学生のほうがただちにおし戻した時、暴徒の方は、消火器の栓をぬいて薬品を吹きかけた。先頭の中国人学生は目つぶしをくらってうづくまってしまった。一瞬たじろいでいる間に、暴徒側は再び棍棒、竹竿をふるっておそいかかった。このときすでにヘルメットをつけている姿がみられた。劉道昌が重傷を負ったのはこの時でした。中国人学生は毛主席の「決意をかため犠牲を恐れず万難を排し、勝ちとる」という語録の言葉ではげまされた。
「退(ひ)くな、退くな、最後まで闘え、退くな、退くな、徹底して頑張れ」
邱委員長は懸命に叫びつづけた。
その時誰かが
「毛主席万才!」
と叫んだ。かがみこみがちだった中国人学生の姿勢がその一声で立ち直った。じりじりと協会事務室の方へすすんでいった。
反中国分子 消火器を噴射 |
そのうち協会内部の人間たちは棍棒をもち殺気だった形相になってきました。
「ヘルメットをとれ」
「棍棒を捨てろ」
といくら中国人学生が叫んでも、相手は口一つきかず黙々と武装を急ぎました。それをみた中国人学生たちは暴徒が再度本格的な襲撃をしてくるのを防ぐため
「入口をふさげ」
「なんでもいいから積みあげろ」
「机をもってこい」
とそこら中の部屋から机とか箱とかをもち出し無我夢中で積みあげバリケードにし自衛策に出たのです。
いつのまにか、協会はバリケードの向うの扉を自分で閉め、一瞬シーンとなりました。
午後四時 三時半頃、協会本部の者たちは入口の扉を自分ではずし、中国人学生らがバリケードとして積みあげていた机などを、一つ一つ室内のほうにひきずり入れてとりのぞきはじめました。しかもそのような作業をしているのにもかかわらず、従来とちがい罵声も発しなければ、掛け声もかけず無気味に静かにことを運びました。明らかになにか期するところがあるような動作と雰囲気でした。
前清水富坂警察署長(今回の事件のあと、なぜか転勤になった)は機動隊を指揮しておりましたがバリケードが破られる瞬間までも正面と部屋の中の暴徒を排除しようとしないばかりか時間をかけ暴徒の作業を手助けしたのです。
「妙だな」と見守っている中国人学生らの眼の前でバリケードは大部分とりのぞかれ、さえぎるものなしに双方は、四メートルくらいの間隔で面と向かいあう状態になりました。
そうして見ると、協会内部の様子は、今までとがらりと変わっている。ネクタイをせず、ジャンパー様のものを羽織って、あきらかに乱闘用にそなえた身ごしらえの屈強な男たちがヘルメットをかぶり、手に手に棍棒をもち口もきかず妙に据わった眼ざしで廊下のほうをにらみながら、五、六〇人もぎっしりと部屋いっぱいにつまっている。その中には、中国人学生らにとって顔見知りの協会本部の人間は一人もいなかった。
しかもそのヘルメットの連中は指揮者らしい者が呼び子の笛をピーッ、ピーッと吹くと、サーッ、サーッと最前列の四、五人が交替するような運動を室内ではじめ、みんなが一斉に軽く足ぶみしているような気配になってきた。
その異常な状態に、中国人学生らの方も、自然と女の子や小さい子をうしろにさがらせ、ようすをうかがうという形になり、日本人青年学生も前に出るようになっていった。
そうこうしているうちに、ヘルメットの連中は呼び子の笛を合図に、じりっ、じりっと部屋を出、廊下に一歩づつ進んできた。
中国人学生側の一人が、会館事務室内に待機していた警官の所に「この状態を黙過するつもりか」と抗議に行きました。やっと一人の警官(前松岡警備課長)がやってきて
「これから警官が部隊で、この間に入る。あなた方は引き下がりなさい」
と中国人学生の方に向って叫んだ。襲撃身構えのヘルメットの暴徒を押し返すのでなく、中国人学生側を押し返しながら警官は逃げはじめたのです。
中国人学生側の最先頭にいた簡仁や日本人岸良鉄石らが、協会のほうに背を向けてさがりはじめたまさにその瞬間、ヘルメットの連中が一斉に襲いかかった。「エーイッ」とも「ギャーッ」ともつかぬかん声をあげて、棍棒をふりおろした。
背後から頭を割られた二、三人が血しぶきをあげて、ヨロヨロッと倒れたとき、警官は振りむきざまにそれを見て、パーッと逃げてしまった。
協会の方に向って最先頭にいた任政光などが、ヘルメット連中にたちむかおうとしているのに四、五人の棍棒が滅多打ちにふりおろされた。
中国人学生側が、本能的に腰をおとして相手の胸か腰のあたりを押し返し、反撃に出ようとすると、ヘルメット連中は棍棒を水平に持ち直してついてきた。そうして、中国人学生たちをひきずり倒し、蹴とばし、踏み越えて棍棒をふり廻しつつものすごい勢いで突撃してきた。それからあとは、素手の中国人学生らに対し、打つ蹴るなぐるのしたい放題。
先頭におびただしい重傷者を出しながらも、中国人学生側はひるまなかった。少しづつ退きながらスクラムを組みなおし、ふみとどまり、押し返しはじめた。
「敢然とたたかえ」
「困難をおそれるな」
「あとからあとへと身を挺してつき進め」
毛沢東語録の中の言葉が、誰からの口ともなく高唱され、血にまみれながら反撃した。
警官は暴徒ではなく中国人学生を制止し「さがれと叫ぶ」 |
中国人学生が協会に背をむけてさがりはじめたこのあと暴徒は襲いかかった。 次の写真へ |
ヘルメット連中の行動は、相当に堂に入ったものであった。ピーッ、ピーッという呼び子の合図で、先頭の四、五人はすぐうしろにさがり、さらに新手の四、五人が先頭に出てきて、また棍棒でなぐりかかる。という風に、なぐる者、突く者が分担されており、しかも絶えず先頭の四、五人が交替するよう、あらかじめ計画され、訓練されているやり方でした。そのことは、連続して撮影された数枚の写真で、絶えず襲撃者の先頭の人間が入れ替わっているところからも、はっきりとよみとれます。これほど準備され、訓練された計画的な「正当防衛」などあり得ません。明白な襲撃であり、殺人行為です。これは一つの戦闘です。現代の盧溝橋事件ともいうべき挑発的戦闘行為です。
夜にかけて この襲撃が、単なる正当防衛でなかったことは次のことでもはっきりします。
それは、襲撃で頭をカチ割られ、血を流し気絶して、死んだように横たわっている中国人を、事務所内にひきずりこみ、さらに事務所の窓から外へおっぽり出していることです。おそるべき敵意と深い憎悪のみなぎった仕打ちといわざるを得ません。
それとも、自分たちの傷害行為の証拠隠滅をはかった卑劣な人非人的な仕業とでも言いましょうか。
その後の経過について、中国人学生の自治会が出したパンフレット「事件の真相」は次のように書いています。
「さらに重大なことは、暴徒になぐられた華僑青年任政光は、暴徒によってニセ『日中友好協会』の事務所にひきずりこまれ、さんざんなぐられたあと、いつの間にか窓から病院に運ばれていた。
二時間以上たってはじめて中華書店に『おたくの書店の人がなぐられて死にかかっていて、いま神保院にいます……』という電話がかかってきた。中華書店の責任者が急いで神保院にかけつけたところ、任政光はすでに人事不省におちいり、頭を割られ、口から血を吹いて瀕死の状態にあった。
病院側は少しも治療する意図がなく、誰も看護していなかった。中華書店責任者陳文貴がすぐに任政光を慶応病院に運んだ。入院手続きが終ったときはもう夜中だった。任政光は頭部に重傷をうけ、内臓に出血があり、全身傷だらけになっていた。これはあきらかに警官の目の前でおこなわれた殺人行為である。
証拠隠滅と思われることはまだあります。
夜の八時半・棍棒・鉄棒・竹竿の類を、毛布に包んで窓から運び出しています。ライトバンの車の尻が、ちょうど窓の高さになるので、その中に夜陰に乗じて積みこんでいます。そして、やがて二〇分もたつと、そのライトバンがまたもどってきて、毛布だけを、また窓から室内に運びいれています。これは、当日、民青から動員されて現場におもむき、あまりのことに呆然と外の道路にたちすくんだまま見守っていた人間の証言です。
頭部と腹部に重傷を受けた中国人学生と怒りにもえる母親 |
そしてさらに悪質なことには、自分たちが使用した「凶器」は運びだしておいて、中国人学生たちが築いたバリケードの机その他を解体して、その足やら金具やらを中国人学生が「襲撃」に使用した「凶器」だと、大々的な逆宣伝をしています。
以上が三月二日の事件の全貌です。
ところが「赤旗」はこれを全くあべこべに書いています。白を黒と言いくるめ、兇暴・残忍な中国人が、日本人に襲いかかったように捏造しています。
「赤旗」の言い分 七日付の「赤旗」は、わざわざ「だれが先に手を出したのか?」という見出しで、「三月二日、華僑学生や対外盲従分子ら三、四十人は午前七時ごろ、協会本部へはいろうとした民主団体員七人を追って協会本部を三たび襲撃し、スクラムを組んで防ぐ事務局員らにバケツで水をかけたうえ、なぐる、けるの暴行をくわえてきました。
このあとかれらは、便所にいこうとした日中友好協会常任理事森下幸雄(三六)氏に玄関付近でなぐりかかり、右上眼瞼裂傷幅五センチ、深さ八ミリ、皮下組織にまで達する全治三週間の重傷を負わせました。
……食事もとれず、便所へもいけない協会本部の人たち約五十人は、午後になると廊下の先まででて、『食事の差し入れをさせろ』『便所にいかせろ』と要求していましたが、午後一時四十分ごろ、華僑学生や対外盲従分子らは、ニ、三度バケツで水をぶっかけ、鉄棒や角材をもってなぐりかかってきました。協会員や民主団体の人たちが本部の入口までしりぞくと、かれらはかん声をあげて追いかけ、入口ドアのガラスをたたき割ったうえ、日中学院の机や教壇をもちだして、入口前にバリケードを築きはじめました。本部内の人たちがこれを取り除こうとすると、かれらは竹ざおや角材でなぐりかかり、ホースをひいて水をかけ、消火器をもちだして薬品を放射するなど、二時間にわたって暴行のかぎりをつくしました。そのため、十数人が重軽傷を負い、窓から運びだされて代々木病院に入院しました。
……このような言語を絶する暴行にたいして、民主団体が正当防衛の権利を行使するのは当然です。午後四時前、協会本部内の人たちは正当防衛の権利を断乎行使し、バリケードをとりのけて華僑学生らを玄関前まで押しだしました。」(三月七日付本紙、同文が三月一二日日曜版にも再録)
と、加害と被害を全く逆転した報道をしています。
ごま化しと捏造 まず、早朝の七時に、バスでのりつけ、トランシーバーで指図しながら、三〇人の人間が一気に押し入ろうとする集団闖入的行為は、「協会の本部へ入ろうとした」とさらり書流せる行為かどうかです。中国人学生側が「なぐる、けるの暴行を」したというが、暴行を受けたはずなのに怪我人が出たとも書いてないし、逆に、現実に中国人学生側には薛、王、王の三人の重傷者が出ていることには一切頬かぶりをしているのはなぜでしょう。
森下常任理事の重傷なる仰々しい話も変な話です。「一人で便所に行こうとした」とありますが、もし本当に中国人学生の方が「襲撃」したのだとすれば、「襲撃」されている最中に(あるいはその直後にしても)「襲撃」者の中をかきわけて一人で便所に行くとは余程の馬鹿でしょう。もし本当に一人で便所に行くことができたとすれば、そもそも「襲撃」なんか存在しなかったことになります。
弁当の中身はヘルメットだったことを証明した |
「弁当さし入れ」問題も変な話です。弁当と称してヘルメットをさし入れしたことは写真にも歴然としています。「赤旗」はさし入れ物の内容については一言もふれません。
中国人学生が「鉄棒や角材をもって」なぐったはずなのに、協会側には怪我人が一人も出ず、「ドアのガラスをたたき割った」だけです。
そのくせ、中国人側がバリケードを築いて、これをはさんで対峙していると、協会側に「十数人が重軽傷を」負うような被害が出たといいます。氏名も程度もあかしません。
妙な乱闘もあったもので、鉄棒でなぐると怪我人が出ず、「ホースをひいて水をかける」と重軽傷数十人。
四時の大流血事件については、「正当防衛権を行使し、華僑学生らを押しだしました」と、それこそ鼻血一つでなかったおだやかな行為のように書き流しています。
わずか「七、八十人」(「赤旗」八日付)の中国人学生を「押す」のに、百箇以上のヘルメットがなぜいるのでしょう。五百人で取り囲む必要がなぜあるのでしょうか。
素手の相手に棍棒をふるって頭蓋骨陥没にいたる重傷を負わせることが正当防衛の権利でしょうか?そもそも、このとき中国人学生側に重傷者が出たこと自体に一言もふれません。
「赤旗」の書いていることは、全く支離滅裂、重要な事実は全く黙殺、そしてただただ、中国人学生なるものが兇暴残忍、鬼畜狂気のようなものだとの印象をばらまくことに焦っているだけのものです。これは丁度、太平洋戦争中の新聞が、鬼畜米英を書きたてたのと少しも変わりません。