ホームページ作成者兼管理者の自己紹介

軍国主義日本の残照と挽歌

 本来、私は、自分自身を人目にさらけ出すのが嫌いな奥ゆかしい人間で、できうるものなら偽名でもつかって、薄暗い飲み屋の隅でクダを巻いていたいと思っているのだが、気を取り直し、何とか自己紹介をしてみよう。基本的な情報としては、1951年に東京文京区のS町に生を受けた、在日中国人の男性である。少年時代は、いわば軍国主義日本の残照と挽歌のあふれる楽園の中ですごした。「楽園」などという言葉をつかうのは、私がその時代に対して、嫌悪感をもっていないからである。

 軍国主義日本の残照と挽歌とはどんなふうに存在していたのか、たとえば、小学校の私のクラスで、ある日教師が児童たちに尊敬する人物に関する作文を書かせたところ、多くの児童が「アドルフ・ヒトラー」を選んだ。その中の一つを教師が当惑しながら朗読したのは、「アドルフ・ヒトラーは立派な人で、武運つたなく敗れはしたが私は尊敬する」というような内容であった。教師は、君たちは本当にそう思うのかと問い掛けたが、多くの児童がそう思うと答えた。その情景を見て、私はヒトラーという人物は好ましい人物であるという印象をもったものである。

 私の心の中には、このような逸話が非常に多数、記憶されているが、面白いので、思い出す限りの話をここに掲げてみたい。ある日、若い女の先生が話の中で中国について触れ、中国、をわざわざシナと言い換えた。その態度には何の嫌みもなく、悪意も感じられなかったので、私は中国に対する呼称としてシナという用語があるのかなと思い、家に戻ったとき、父に「中国のことはシナというんでしょ?」と確認したところ、彼はかなり強い態度で、シナなどという言葉を使用してはいけないといった。さすがに、それ以来この言葉は悪い言葉であると思うようになった。あるいは、ある日、小学校のクラスで、教師が日本の造船産業の話に関連し、いろいろな種類の船の話をした。黒板に商船やら、タンカーやらの絵を描き、船の種類の説明をしたが、児童たちが興味を持たず、関心が集まらなかったのか、次に彼は「それから日本はこんな船も造っているのだよ」といって、まず船の本体を描き、その船首に大砲のようなものを描き加えた。「この船はどういう船だと思う?」と彼が問いかけると、当然のように「軍艦だ」という答えが返った。教師は、待っていたかのように、「いや、これは軍艦ではない。日本は軍艦のような戦争に使用する船は一切造らないのだよ」と語った。彼が描いた絵は捕鯨船だったのである。

 生粋の中国人である私の妻は神社に対して、恐ろしいものであるという印象を持っている。しかし、私は神社に対して悪い印象を持たないばかりか、なにかとても懐かしい、心を和ませる空間であるという感情を持っている。その理由を考えてみると、S町の家の近所にあったN神社が、私の少年時代の楽しい遊び場所だったからである。後に、姿三四郎という小説で、この神社が実名で登場する場面に出会ったとき、私は不思議な満足感と誇らしさを覚えた。また、後のある日、九段の近くで友人らと酒を飲んでいたとき、その席から靖国神社の鳥居が見えた。私が思わず、その鳥居に対して誉め言葉を語ったのだろうか、友人の一人が驚いて、私のような立場の人間がそのようなことを言うのは奇妙だとのべた。

戦艦大和

 そのN神社の隣りにすんでいたS君は、私の少年時代の親しい友人で、その頃、私はしばしば彼の家を訪れた。彼は将棋がたいそう上手だった。正確には、私があまりにも下手だったのである。彼の家では、彼と将棋をしたり、もっと面白い「軍事将棋」というゲームをしたりしたのを覚えている。軍事将棋というのは、なかなかよくできたゲームだが、本当にこのゲームを楽しむためには、対局者の他にもう一人審査員が必要になる。これは、このゲームの大きな欠陥である。ある日、膳をはさんで彼と対面していたのは、将棋を遊んだ後だったのか、あるいは、将棋を遊ぼうとしていたときなのか、よく覚えていないが、彼は膳の上に白い紙を置き、絵を描き始めた。海面を表す線が一本横にあり、その上に、真横から見たやけに胴の長い船体をゆっくりと描いた。その筆先を吸い込まれるように見つめていた私の前で、彼は船体の上の各所に各方向に、多数の大砲を描き加えていった。その絵のできばえが非常に見事だったので、私は感心の声をあげたが、彼はさらに続けて、船の上空に多数の航空機を描いた。彼の巧みな筆先は、それらの航空機から爆弾や魚雷を船に向って発射し、船のほうからは対空砲火を反撃させ、その紙の上をで小さな戦闘シーンを演じた。私は、最後にその軍艦が沈没したかどうか、思い出すことができないが、多分、彼はその戦艦を沈没させたと思う。

 この遊びに強い印象を受けた私は、自分でもその遊びを再現しようとして、船の絵を描いてみたが、彼のように上手に描くことはできなかった。その頃、プラモデルが子供たちの人気を集めていた。これは、もちろん、プラスチックで作ったパーツを組み立てて、さまざまなものの模型を作る玩具だが、人気があったのは、というよりも私が覚えている限り店で販売されていたのは、零戦やら飛燕やらの、旧日本軍の戦闘機や軍艦の模型であった。プラスチックの模型を組み立てるときに使用した接着剤の強い刺激臭が思い出される。ある日、私がなにか好きなものを買ってもらえるという機会が訪れたとき、私は少し大きく複雑な戦艦大和のプラモデルを選んだ。私にプレゼントをくれようとしていた人は、やはり少し当惑して、「本当にこれがほしいのか」と尋ねたが、私がそうだと答えると、それを私のために購入してくれた。そのモデルは単なる模型ではなく、小さなモーターの動力を内蔵させてちょっとした動きを再現できるものであったが、工作のまったく苦手な、手先の不器用な私には、それを完成させることができなかった。

 中学校時代にはもちろん初恋もあったが、ここではそれには触れない。その学校では、中華人民共和国を普通「中共」と呼んでいた。社会科の教師がそう呼んでいたのだから、私がその呼称を正しいものと思ったのも無理はあるまい。もちろん、このような呼称には、その国に対するある種の評価が含まれていたのであろう。毎年、国連総会で中国代表権を持つ権利のある政権を選ぶ投票が行われるニュースがあり、台湾の政権が当選していた。他に思い出すことといえば、何だろう。S町の家の近くにあった駄菓子屋では、おでんやら、おかしな駄菓子やら、不思議なカードゲームやら、そんなものを買った。その頃、街は静かで、空は青く、高かった。向田邦子という作家のドラマで、玉音放送を聞いたとき、ただ空が青く、高かったことだけを覚えているといったせりふがあったのだが、多分、私が見た空もそれと同じような空だったのだと思う。

国語学習会

 初めての外国人登録の時には、区役所と警察官の双方から、えらく不愉快な思いをさせられたのだが、それでも私の楽園を崩壊させるには至らなかった。高校に入学したのは一九六六年四月であるが、その頃、私は在日中国人、あるいは華僑の青年組織が主催する「国語学習会」に参加し始めた。ここにいう「国語」というのが中国語であることはいうまでもない。少年時代の楽園に安住していたために、私は中国語がまったく分からない人間に育っていたのである。この安住のつけは、中国語を話せない中国人という、おかしな境遇を私に用意してくれた。実は、今でも、私は中国語を自由に操ることができない。他のいろいろなことは我慢できるが、この一点についてだけは、私は少年時代の楽園について怒りを感ずる。

 学習会のクラスの中では、当初私は異分子であった。これは、無理のないことである。私は中華人民共和国を中国と呼ばず、中共と呼んだ。すべてにつけて、私の感覚は中国人らしいものではなかった。私は、ノーベル文学賞の候補になったというそれだけの理由で、三島由紀夫を愛読していた。彼の初期の作品はひどく難解で、電車の中の時間つぶしに読むにはとても厄介な代物ではあった。私は、湯川秀樹がノーベル賞を受賞したことに対する日本人の誇りを、どこかで非常に強く感じていて、なにかノーベル賞というものに、決定的な価値を認めていたのであろう。

 いま、考えてみると、私のこのような異端児ぶりは、国語学習会の生徒たちだけでなく、主催者たちをもひどく困らせたのだろう。しかし、私自身の主観を言えば、私が古い楽園を廃棄して、新しい世界に順応するのにさほど時間はかからなかった。私の国語の老師(といっても若い先輩だったのだが)は、中共というのは中国共産党の略で、中華人民共和国の略称は中国というのだと教えてくれ、私はそれから中国に関する多くの新しい情報に接していくことになる。その中国というのは、また、私にとっての祖国ということになるということも。

 L君という、今から考えると大変優秀で、人間的にも素晴らしいリーダーがいたのだが、彼が私に提起した命題は、社会主義は資本主義よりも進んだ社会であり、資本主義社会は必然的に、社会主義に変わっていくのであるという考え方であった。この「科学的な命題」はとても私を驚ろかせ、疑念を抱かせたが、また、後に別の種類の学習会で知った「労働価値説」という学説、あるいはその卑俗な解釈とともに、私の半生に大きな影響を与えた。つまり、商品の交換は等価値交換である。賃労働は、労働力の販売であるが、労働力の価値はその生産費、つまり、労働者が生活して子孫を養っていくに必要な価値である。ところが、価値は労働によって創られ、労働力を購買した資本家がその労働力を使用して生産する商品の価値は、労働力の価値よりも大きく、この差をもって資本家が得る利潤が得られる。このように、生産手段の私有の条件下で行われる生産活動の一形態である賃労働は、搾取を内包しているというのである。このような命題に私がこだわったのは、実は私は、このような論理的な演繹を確かめることを好むという性質があるからである。簡単にいえば、私は屁理屈をこね回すのを好むのである。

青年聯歓節

 残念なことに、国語学習会は中途半端なかたちでなくなってしまい、私の中国語はものにならなかったが、私は多くの在日中国人の友人を得た。また、華僑青年の会は多様な活動を行っていて、私はそれに参加した。学芸会のようなことをしたり、講演会のようなこと、歌を歌ったり、ハイキングのようなものもあった。今もよく覚えているのは、夏休みに日本各地から華僑青年が集まった青年聯歓節という行事である。私は、この青年の集いに三度参加した。最初の年は、1966年、開催地は京都であった。このような青年の集いが楽しくないはずはない。私も、環境の変化と、新しい考え方の洪水のような到来に多少は戸惑いながらも、それらにじきに順応し、楽しいと思うようにもなった。聯歓節は1967年と1968年にも参加したが、場所は大阪と横浜であった。どちらが横浜で、どちらが大阪であるかは忘れてしまった。

 大阪での聯歓節は、当時、紅衛兵運動が日本では激しく非難されていて、私たち在日中国人青年の集いが紅衛兵運動の日本への持込であると思われ会場を手配するのが難しかったのか、開催地は荒れ草がぼうぼうに生えた原っぱの中にぽつんとあるプレハブのような建物だった。この開催地に向って電車の駅を降りたときから、主催の責任者たちは駅に私服の刑事がいて、写真をとられたかどうかなどと神経を高ぶらせていた。大会は三日間ほど泊り込んで青年たちの親睦を深めるのだが、その途中に軽飛行機のようなものが宣伝用に飛来し、「紅衛兵諸君、はやく解散しなさい」などというような忠告とも嫌がらせともいえるようなことをマイクでいっていた。夜は、襲来する藪蚊にいいように血を吸われ、みなの足は真赤になっていた。この集いでは、中国のプロパカンダ映画「東方紅」を鑑賞したりした。最初にこの映画を見たとき、私は芸術というものに独立した価値を認める日本の一般的な傾向に影響されていたので、非常に失望し、「これが祖国の芸術と思うと絶望的な気持ちになった」などとカッコをつけていたが、そのうちに慣れてしまった。芸術は労働者農民に奉仕するものでなければならない。これももっともな理論である。そうじて、私がもっとも強くおぼえていて、また楽しかったのはこの大阪でのどたばたとした集いである。

 一応、横浜での聯歓節にも触れておこう。このときの会場は、横浜にある中華学校の校舎だった。毎朝、朝礼のようなことをして、毛主席語録の朗読、あるいは唱和をしたのではないかと思うが、記憶ははっきりしない。とにかく、何かと殺気だった雰囲気の中での集いだった。開催最終日に、デモを行うということで、中華街の中を練り歩いた記憶があるのだが、そのときわざわざ警官隊がわれわれの護衛(?)に出向いていた。乱闘服にジュラルミンの盾をもった機動隊ではなく、普通の制服を着て帽子をかぶった警官隊だった。デモの最中に、われわれデモ隊の中で、ちょっとしたトラブルがあったことを、私は後から聞いた。それは、デモ隊の一人の青年が「安保粉砕!」というスローガンを叫んで、あるいは叫ぼうとして、スクラムデモをしようとして、周りの人たちに取り押さえられてしまったというのである。在日中国人の集会なので、「中国の文化大革命を支持する」とか「日本(反動)政府は中国敵視政策をやめろ」とか、「毛主席万歳」とかそのようなスローガンを叫ぶのは構わないのだが、「安保粉砕」は駄目なのである。確かに理屈ではその通りかもしれないが、私は自分の境遇と、日本人の境遇との間にある、その見えない壁の存在がうとましく感じられた。

後楽寮の男声合唱グループ

 さて、話を少し戻すが、華僑青年会との付き合いが深まってから、私は何かと善隣学生会館の後楽寮に足を運ぶようになった。後楽寮にはいろいろな人が住んでいた。青年達のちょっとした集まりもここで行われたのだろう。よく覚えているのは寮生の数人が結成していた男性コーラスグループである。なかなか上手な合唱を演じ、私はおりにふれ、その見事な歌唱を聞かせてもらうことになった。その演目で、曲名は覚えていないのだが、最後の歌詞が

「私を叱らないでママ、私を叱らないでママ、私は何も知らないの、恋はXXしいものよ」

となるレパートリーがあった。私が彼らのことをいつまでも忘れないのは、実にこのレパートリーのためである。この曲の最後の部分には、「恋は悲しいものよ」と「恋は楽しいものよ」という二通りの歌詞が用意されていて、どちらか一方を歌った後、たとえば、

「♪♪恋はかなしいものよ」

あれ、違ったかな、「恋は楽しいものよ」だったっけ

 というふうに歌詞を間違ったことをアピールして、その次の科白で

「恋はかなしいものよ」と「恋は楽しいものよ」

ううん、どちらが真実なんだろう。

 というオチをつけるのである。私には、この彼らの問いかけにどちらが真実かを答える経験や知識がなかった。そのために、そのネタは私にとってさらに面白く感じられたのである。しかし、この合唱団のもちネタは非常に数が少なく、ほとんどそれが唯一のネタのようにも思え、同じネタを何度も聞かされることになった。

流血事件とその後

 後楽寮が善隣学生会館の流血事件で揺れていた一九六七年二月末から三月二日の間、自分が何をしていたのか、後楽寮の友人たちとの連絡はどうなっていたのか、残念ながら思い出すことができない。日本共産党が中国共産党と悪い関係になり、華僑青年の会でも、いままで、いっしょに活動をしていたりした人と関係が悪くなったりしたというような話は、なんとなく伝わっていたが、それは私の生活に大きな影響を及ぼすようなことではなかった。私自身の思想的傾向は、華僑青年会の友人ができてから、社会主義の中国を受け入れるようになり、社会主義、共産主義を受け入れるようになり、むしろ、今まではあまり好感情を持っていなかった共産党に対して、だんだんと親近感を持つように変化している過程にあった。もし、日中共産党の関係があのようにならなかったら、私は華僑青年の会を通して、日本共産党の友人を紹介され、そこからそれなりの人間関係を築いていたのかもしれない。

 だが、実際には三月になり、後楽寮で何人かの寮生や支援の日本人が重体になっているという情報を受け取ったのである。その情報の媒体はパンフレットのようなものであったと思う。このようにして、私は善隣学生会館闘争に合流して、日本共産党に対して抜き差しがたい不信感を抱くようになった。その頃、私には日本共産党に関係する友人も知人もいなかったから、私の理解をそちらの側から修正するひとはいなかった。私は、民青のゲバルト部隊や日中友好協会員を、善隣学生会館内で、見た記憶がない。事件が起きる前に、かれらを紹介されたこともなく、事件がおきていたその日には立ち会っていなかったし、事件後も、日中友好協会の協会員はあの会館内では目立たなかった。

 さて、私が最後に善隣学生会館を訪れたのは、いつのことであろう。一九七〇年七月七日に華僑青年闘争委員会が「知っている人には」有名な新左翼諸党派への決別宣言を突きつけた頃、私が「国語学習会」で知り合った華僑青年の会の友人のうち、比較的多数の人が華僑青年闘争委員会に参加していたので、私はその関係で善隣学生会館に出入りしていた。しかし、一九七二年頃には、華青闘は方向性を失って、善隣学生会館からも追われたような形になり、それ以後、私はこの会館に足を踏み入れていない。

 以上、私と善隣学生会館の関係を中心にして、自己紹介を書いてみた。三〇年以上昔の善隣学生会館事件になぜ私がこだわるのかという点については、このホームページの趣旨などに書いたので、ここで繰り返しはしない。最後に、日本共産党がいう「盲従分子」とか「トロツキスト」とかいう人々にとって、一九七〇年代半ば以後の政治情勢は厳しいものがあるが、それは善隣学生会館事件の事実関係を後から証明するものになっているわけではないことを、特にのべておきたい。

2000年8月24日 猛獣文士
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