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以下に提供する資料は、“一九九ニ年一月十二日から三月四日まで「赤旗」で連載された、リレー連載第二部「中国覇権主義とのたたかい」を一冊にまとめた、赤旗編集局編、新日本出版社刊の「中国覇権主義とのたたかい」(1992年)の第32節の全文であり、執筆者は橋爪利次氏です。この節では善隣学生会館事件の真相に対する日本共産党側の見解が主張されています。 1967 2 月から 3 月にかけて起こった、この事件に対する日本共産党側の資料として、とりあえず紹介することを目的にしていますが、 1992 年に書かれたこの文書は、資料的には一次資料とはいえません。現在、時間と費用と労力を惜しまなければ、事件の起こった当時の赤旗紙の記事を入手することが可能であり、それらの資料ならば、まずこの事件に対する日本共産党側の生の主張に近いものをえることができると思います。そのような資料を差し置いて、この 25 年後に書かれた短い記事をここに提供するのは、生の一次資料を収集し、整理するためには相当の時間を要すると思われるからです。もちろん、今後、そのような一次資料をあらゆる方面から収集し、漸次、このページに追加していきたいと思います。

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2000 7 22

猛獣文士


三年近く、干渉と暴力から本部事務所をまもりぬく
橋爪利次

目次
こん棒、竹やり手に“狂気の紅衛兵”が襲撃

社会党は暴徒の側につく

善隣会館内の在日華僑学生寮の学生たちは、脱走事件のあった直後の一九六六年十一月はじめから、中国で荒れ狂う紅衛兵に連帯して、会館内で壁新聞を張りめぐらし、日中友好協会からの脱走派を断固支持するとか、「ニセ日中は会館から即時退去すべきである」などと書きたてていました。このなかには、覇権主義的干渉の先頭に立ってきた趙安博から脱走分子にあてた激励電報の写しもはられていました。

北京では、「毛主席に反対するものはだれでも打倒する。われわれは東京まで鉄拳を延ばしてお前たちの犬の頭を殴ってやる」などとした紅衛兵の新聞がでまわっていましたが、会館内ではこれに呼応して、「...犬の頭をたたき割る」、あるいは「宮本修正主義はアメ帝ジョンソンとソ修コスイギン、日本反動と手を結んで反中国に血まなこになっている」といったでたらめな壁新聞を張りだし、異様な空気をつくりだしていました。

こん棒、竹やり手に“狂気の紅衛兵”が襲撃

日中友好協会本部襲撃事件の直前の六十七年二月二十五、二十六の二日間、私たちは、都内で協会の定期大会をひらき、笠原千鶴新会長らを役員に選び、中国の干渉を排して「自主的な友好運動の前進を」との決定をおこないました。私は大会で事務局長に選ばれたのですが、各方面へのあいさつ回りをひと通りおわったあと、一度和歌山に帰り、引っ越し荷物の発送と県連業務の引き継ぎをしてくる予定になっていました。

襲撃開始の二十八日には、朝から夜まで笠原会長とともに新任のあいさつ回りをおこない、そのあと一人で本部に帰り、事務局会議をひらいたあと、残った女性一人をふくめて四人とともに大会決定文書の発送の準備をしていました。その夜十一時すぎから華僑学生らによるわが本部への襲撃がはじまったのです。その日は翌朝にかけて彼らの策動がつづき不法監禁状態になりました。

一夜あけ、三月一日の朝になると、中国人らしいなまりで「命をかけてお前たちを追いだすぞ」との脅迫電話がかかり、周辺に動員部隊が動き緊迫してきましたが、午後六時には玄関ホールに華僑総会幹部、三好一ら脱走分子、貿易商社員、ニセ「左翼」暴力集団、日本人暴力学生らもくわわって、百数十人が集まり、喚声をあげ、どっと本部に押しかけてきたのです。おもての頑丈なドアをこん棒で破壊し、そとの電源をきり、裏口にやってきた暴徒がドアをたたき破るという暴挙をはたらきました。私たちは、入り口に机やいすでバリケードを築いて防ぎました。

女子事務局員一人をふくむわれわれ五人は、事件発生から食事も取れない、暖も取れないという状態に追いこまれました。便所へもゆけないのでバケツに用をたしましたが、これもすぐいっぱいになって続かないわけです。二日朝、たまりかねた森下幸雄常任理事が廊下にでて便所に入ろうとしたところ、やにわに十数人の華僑学生らに襲われ、顔面に三週間の重傷をおい、支援の人たちの協力で暴徒の妨害のなか病院に運ばれたのです。

彼らは、協会本部入り口にも、玄関にも、強固なバリケードを築きあげました。赤い腕章をまいた彼らが『毛沢東語録』を唱和し、こん棒、竹やり、ヤスリを手に手にくりかえし襲撃してくるさまは、まさに“狂気の紅衛兵”です。とじ込められはげしい暴行をうけた私たちの安否を心配し、救援のために駆けつけてくれた仲間たち、食料を差し入れにきてくれた人たちもひどい暴行をうけ、たくさんのけが人をだしました。

善隣会館の管理者に再三にわたって、会館での器物破壊、通行妨害などをやめさせるよう申し入れをしましたが、財団法人善隣学生会館の理事として脱走派の中島健蔵らをかかえる会館側が誠意ある態度をとりません。不法監禁とあいつぐ暴力行為で生命の危険を感じた私たちは、富坂署の一一○番に通報しましたが、なんと「監禁なんかされていない」として応じない。協会役員と弁護士が強く申し入れても拒否するありさまでした。そればかりか、一日の深夜には機動隊が、やってきて、会館周辺に私たちの安否をきづかい集まってきた会員、支援の労組、民主団体、日本共産党員らにたいし、「無届け集会だ」「解散しないなら実力で排除する」といってたちむかってくるのです。

二日午後、東京地裁による仮処分がでて、便所、玄関への通路のバリケードの撤去となりましたが、玄関通路などには全国から動員した暴力分子がたむろし、われわれの通行の自由も、事務所から出る自由もない状況が長期間つづきました。

しばらく日をえて裏側のバリケードを撤去した私たちは、地下の食堂経営者の協力をえて外に出る自由を確保しました。唯一の自由な通路で、これを私たちはベトナムにならって「地下道」と名づけました。それから二年間、会館内の様子がすこしは変わったものの、襲撃は深夜、白昼と、のべつまくなしにくりかえされたのです。われわれは、三年近く干渉と暴力から本部事務所をまもりぬきました。二月二十八日からの二年間だけでも、百回をこえる集団的な襲撃を受け、二百八十七人もの負傷者をだすという、言語に絶するはげしいたたかいでした。

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社会党は暴徒の側につく

こうした重大事件にたいし中国側は、北京放送で、こともあろうに、協会側が中国学生を襲撃したとか、「日共修正主義」や民青が襲ってきて中国人の血を流したなどと、黒白転倒のナチスばりのデマ宣伝に狂奔したのです。そして、廖承志事務所東京代表部首席代表の孫平化(そんへいか)が三月二日に善隣学生会館に暴徒たちを直接激励しにやってきたのを私たちは目撃しました。私が一九五八年に引き揚げ三団体代表として訪中したおり、廖承志らと会ったさいに彼が同席し、その後も北京で何回か会っているので、孫平化とすぐわかったのです。

中国の「文化大革命」をそのまま日本にもってきたこの異様な事件について知ってもらうため、私たちは、新聞各社の記者を招いて、本部内を公開し、めちゃめちゃに破壊された実態を見てもらうこともしました。また国会内で記者会見をし、くわしく実態を説明しましたが、一般紙は、「善隣会館でトラブル」などとした小さい記事をのせた程度でした。連日真実を伝える「赤旗」ほうどうがなかったらどうなっていただろうか、支援共闘、弁護団の活躍がなかったら私たちの命は守られていなかったと思われるほどの、生死をかけての中国覇権主義とのたたかいでした。

日本社会党は、中国や追従分子のいいなりになって暴徒たちの側についたということも消しがたい事実です。一九九二年は、この襲撃事件の二十五周年です。中国の覇権主義者は、「文化大革命」の誤りを認めました。しかし、乱暴きわまりない干渉をうけた日中友好協会にたいし、彼らはいまなお誤りをみとめず、それどころか、依然として干渉政策をあらためず、脱走分子との公式な関係をつづけ、覇権主義をすてていないのです。

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