日中友好運動や善隣学生会館についての貴重な資料をお貸しくださった江尻健二さんが、老日中クラブ「日中友好の想い出」という小冊子に書かれた文章をこのホームページに収録させていただきます。先日、偶然、飯田橋付近である人にあった際、日中友好会館を見に行きました。本館は貸しビルになっているようで、多数の企業が入っていました。善隣学生会館の独特の雰囲気は、なくなっていたような気がしましたが、隣接している日中学院と後楽寮がある建物の中に入れば、また別の印象を持ったのかもしれません。

 江尻さんのこの資料では、善隣学生会館が日中友好会館に生まれ変わるころからその後の事情や問題点について少し触れています。日中友好は過去の問題でなく末永く維持すべき大事な問題であり、日中友好会館もその象徴的な建物として、今後もその役割を果たしていかなければならないことを、再確認しました。

2003年1月13日 猛獣文士

「日中友好会館」想い出へんぺん
日中学院顧問 江尻健三


 私の生涯の仕事であった「倉石中国語講習会」=「日中学院」での三十三年の内、「会館」とのかかわりは、実に三十二年十ヶ月におよぶものであった。

 その「会館」に、日中関係で忘れてはいけない歴史があることを知ったのは、「倉石十周年祭」のあった一九六一年六月のことであった。「会館」は、時とともに、その名を変えていった。

 「満州国留日学生会館」一九三五年六月〜一九四四年二月

 「満州国留日学生補導協会」一九四四年三月〜一九四五四年

 「中華学友会館、後楽寮」一九四六年一月〜

 「善隣学生会館」一九五三年三月〜一九八七年

 「日中友好会館」一九八七年〜

◎「会館」が、中国人留学生(戦中の)と在日華僑子弟を、日本の法で会館から追い出そうとした時、「倉石」の教職員学生と在日中国人との間に連帯が生まれた。私達も中国人青年と、深夜「後楽寮の中国人学生追出反対!」「再び長崎国旗事件を起こすな!」のビラを会館周辺に貼りめぐらし、それを「会館」にみつかり、「倉石」への電話とりつぎをうち切られた。

 「倉石中国語講習会・学生自治会」により、社、共、日中諸団体に共闘のよびかけがなされ、後楽寮事件解決の糸口がつくられた。

◎一九六七年三月二日、前年、中国で行われた「第一回日中青年友好大交流」に参加、「日中友好、日中不再戦」を涙して誓った日本人青年が、消火器、棍棒などをもち、「日中友好」とかかれたヘルメットをかぶり、「会館」内の中国人青年とそれを支持する日本人に襲いかかった。私と妻は相対する立場にあった。

◎その年の「第二回日中青年友好代交流」は、「外務省」の「日中青年の交流は国益をそこなう」との反対で訪中できず、私も幻の団員でおわった。

◎「会館」の歴史を「日本人の責任として」まとめようと、中国研究所の吉成、佐久間両氏と共に、「中国研究月報・一九六八年十一月」号に、「特集『善隣学生会館』の歴史とたたかい」(四〇ページをまとめた。

 この月報は、日中学院内に組織された「『善隣』を中国に返還する会」によって、中研の許可を得て増刷され、その表紙に、大きな赤い文字で、「中国侵略、敵視の遺産『善隣学生会館』を中国に返還しよう!」と印刷され、その后の闘争の教材となった。

◎一九八〇年、大平首相、華国鋒主席会談で「日中国交回復十周年」を記念して、日中両国の共同事業として、「日中友好会館」の建設が決まった。

 その建設現場に「会館」の土地約二〇〇〇坪の使用が決まり、中国政府も日本円で五億円の支出を決めた。「満州国」の資金で求められた、この二〇〇〇坪の土地の所有権について、中国側は「棚上げ」日本側は「触れない」であった。

◎現在、「会館」学生寮・後楽寮には約三〇〇名の中国人公費留学生、研究者が住み、日中学院では一〇〇〇名余の日本人が中国と中国語を学んでいる。

◎日中両国の共同事業である「会館」は一時、「中国人留学生受入れピンチ」「日中友好会館財政ピンチ」「日中友好会館が経営危機」といったキャンペーンがはられたことがある。冗談ではない。

 このような国家的な事業、いや国際的な事業が、銀行管理の下でしか行なわれないのは、いかにも情けない限りである。

 そのあらわれが、最近「会館」を出た「中華書店」の例でなければよいが。

◎中国への侵略、敵視、蔑視の遺産が、まこと「友好」の象徴となるためには、絶えざる努力を欠くことはできないであろう。

◎一九九一年日中学院発行の「中国へかける橋V」には、「写真と資料でつづる日中学院と会館史」が六四頁にわたり納められているが、今後より一層充実したものが、日中両国青年の共同作業として、まとめられることを心から願っている。

二〇〇二・三・二十


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