前日中学院副院長の江尻健二さんが書いた日中学院の発行した記念誌の文章をいただきました。日中友好運動の草創期の貴重で興味深い話題や、善隣学生会館事件の裏側の事情を覗かせる話題が紹介されています。原点からの日中友好運動に携わってきた貴重な文献として、このホームページにも収録させていただきます。 |
2003年1月13日 猛獣文士 |
日本と中国の流れの中で | |
「倉石中国語講習会37期生」江尻健三 |
1949年、新中国成立、その熱気がまだ残っていた1955年、私は高校の友人に連れられ、安藤彦太郎先生を訪ねました。友人に面白い中国語の授業があるとすすめられたからです。先生の授業は政経学部で私は文学部なので、授業料を払わずの盗聴でした。発音はすんでいたのか、最初に手にした教材は、ガリ版刷りの、魯迅の「孔已己」でした。当時まだピン音字母は制定されておらず注音字母を用い、辞典は井上翠の辞典があるだけでした。
授業が面白いというのは、授業中に中国解放前後の事を、いろいろとうかがうことができたからでした。
私は夜間部の学生だったため、昼間は働き、夜は授業、その他に学生自治会(全学連)、それに民主主義科学者協会、芸術部会に入っており、学生自治会が忙しくなるなかで、安藤先生の授業への参加は中断してしまい、中国語雑誌「中国語」をポケットに入れておくぐらいになってしまい、やがてそれも手放してしまいました。
1958年、ソヴィエトの平和移行等の影響を受け、学生運動にも亀裂がはしり、私は分裂した三つの方面から、もどるようにといわれながらも、一人とびだしてしまいました。それに伴い、学校もやめてしまいました。
昼は働いていましたが、それで満足できる訳はなく、想いだしたのが中国語の再学習でした。
今、日中学院のある場所には、「満州国留日学生会館」という古い建物があり、その壁に「中国語講習会」の垂れ幕が下がっていたのを思いだし、訪ねたところ、そこにはなく神田三崎町の東方学会に「倉石中国語講習会」があることをしりました。
「長谷川教」と安保闘争
1960年4月、私は「倉石中国語講習会第37期生」として、中国語学習を再開しました。講師は長谷川良一先生、学生は70名の大クラスでしたが、絶妙の授業さばきで、昼の仕事の疲れにもかかわらず、居眠りするすきも与えられませんでした。クラスは先生の情熱に動かされ、新しい実験授業に対し、自らモルモットの役をかってでて、学内で公開授業を行ったりしたため、「長谷川教」といわれるほどでした。
講習会の基礎教育は、当時はA〜Dの1年間で、その上はすぐ研究科でした。長谷川先生の実験教育が1年間でおわり、研究科に放り出されることを知り、クラス全体が実験教育の1年延長を求め、倉石先生宅に陳情を重ねました。講習会全体で討議を重ねた結果、基礎教育の2年制は認められましたが、長谷川先生の続投は認められず、2年目は李秀清、新島淳良、沢山晴三郎の三先生が担当されることになりました。
新島先生の授業の初日、先生の授業に対し、クラスが長谷川方式での継続を求めたため、新島先生はその日で辞任されてしまいました。そんなにうるさいクラスではと、倉石先生がそのあとをもってくださることになりました。新島先生には申し訳ないことをしてしまいましたが、お蔭で週一回ではありましたが、倉石先生から曹禺の「雷雨」を一年かけてじっくり教えていただくことができました。
1960年は、日本の政治の上でも激動の時期でした。学生時代、政治に振りまわされた私は、しばらくそれから遠ざかるつもりでしたが、それはゆるされませんでした。入会直後から学内でも、授業を中断しての日米安保反対の討議がつづけられ、長谷川先生等を先頭に国会へのデモが繰り返されました。国会内で樺美智子さんが虐殺された時、講習会のデモもその近くにおりました。
その時、北京でも、日米安保反対の100万人の集会が行われていました。
貧しさの内で、教室を得て
当時、講習会の財政は貧しく、学期末になると事務を扱っていた庄司先輩がクラスをまわり、“今期の収支はかくかくしかじかで、○万円程足りないからカンパをして下さい”と訴えていました。そんなことが何回かつづくと、まじめに授業をつづけている人が、余分に授業料を払わされることになり、おかしいではないかと文句をいったりしていました。そんな文句のタタリで、学生自治会の委員長を引き受ける破目になってしまいました。
1961年になると、倉石先生が理事だった関係から、善隣学生会館(戦中は「満州国留日学生会館」、今の日中友好会館)に10坪ほどの教室が借りられる話がでて、それには専従職員が必要とのことになりました。
創設期から9年間の東方学会時代は、教室はおろか事務所すらなく、日中友好協会倉庫の片隅に、スチールの書類入れと、当時は大変貴重だったテープレコーダー(三枝仁先生からの借り物)が、太い鎖でつながれていただけでした。専従職員の希望者は数人いたようでした。当時、私は結婚したばかりで、小さな電器店に勤め、労組相手に家電製品の販売をしており、月給は17,800円でした。
講習会の条件は、勤務時間等の指示は何もなく、月一万円の給料だけがはっきりしていました。かなりの減給になってしまいますが、すきなことができるならとの妻のことばで、履歴書と、あと一年間は今のクラスでの勉強をつづけさせてほしいとの希望をつけ、倉石先生に申し出ました。数日後、その願いは認められ、四月から手探りの講習会づくりが始まりました。
机も椅子も黒板も、何もない内での教室づくりがはじまりました。教室が一日丸々使えることになり、1959年4月からはじめられた「家庭婦人のための中国語講座」が午前、午後を使うことになり、一日中、学生の出入りが賑やかになっていきました。事務室はないので、教室の一隅についたてを立て、その影に机をおいて事務をとりました。学生数もおちつくようになり、倉石先生も大幅の減給を気にしてくださり、最初のつきから15000円に昇給してくださいました。後に長女、星火が誕生した時は、学生の提案で2000円昇給したのは、有難い想い出でした。
「善隣学生会館」との闘い
1961年6月、「倉石中国語講習会」は、「創立10周年祭」を千代田公会堂で開催し、成功裏に幕を閉じました。しかし、講習会はその日から、「日中友好」をいかに実現し闘いとるかという厳しい問題にぶつかりました。講習会が移ってきた「善隣学生会館」は、日本が中国を侵略している最内の1935年に設立され、当時は「満州国留日学生会館」とよばれており、中国の東北地方(「満州」)から来た中国人留学生は、日本陸軍、内務省等の管理下で、日本式教育を強いられていました。
日本の敗戦後、ここに残された中国人留学生は、この建物を自主管理していました。かつての管理者たちは、戦争犯罪者になるのを怖れ、いち早く逃亡してしまいました。1953年に新しく設立された「善隣学生会館」理事会は、これらの中国人留学生を不法占拠者だとして、日本の法により強制退去させようとしたのです。それらの中国人留学生からの訴えを受けた講習会は、その夜から留学生と討議をつづけると共に、日中両国の青年が共闘体制を強めていきました。
「倉石中国語講習会 学生自治会」のよびかけで、社会党、共産党をはじめ地域の労組等に共闘体制が拡がり、数年後には勝利を納めることができました。
後日、ある老華僑の友人は、これらの闘争がなかったら、今日の日中学院はなかったでしょうと語っておられます。
1964年には複雑な問題をかかえながらも、新設の日中学院は「各種学校」として認可され、同じ建物で、同じ教室を使い、そのいずれもが倉石先生を長として、「倉石中国語講習会」「家庭婦人のための中国語講座」「日中学院」が、共存していくことになるのです。
「創立15年祭」と日中友好運動の分裂
1966年6月「倉石中国語講習会」は「創立15年祭」を開き、400余名の学生が、中国の革命舞踏史詩劇「東方紅」を演じ、九段会館に集まった2000余りの観客に深い感動を与え、数日後には「人民日報」に写真入りで大きく紹介されました。
しかし、この式典の少し前からおかしな事態が起こっていました。実行委員長の失踪、それにつぎ任務放棄者がでる等、我々は訳が分からないなかで、実行委員長探しに忙しい時間をそそいだりしました。それ等の原因が分かるのに、時間はいりませんでした。
この前年の1965年、日本の各界青年600名は、「第一回、日中青年友好代交流」に招かれ、中国各地で、中国の青年と「日中友好」「日中不再戦」を誓いあいました。
15周年祭がおわったあと、「倉石中国語講習会」に対し、「第2回、日中青年友好代交流」の招待状がとどきました。その直後、私の処に、一同学が来て「今度、訪中すると特定の思想を押しつけられるから、招待に反対する」旨が伝えられました。私は一政党の意見を、一民間の学校に押しつけるのはおかしいし、そんなことをしたら彼等が孤立するだけだと伝えました。それから学内では、連日連夜の討議が進められ最終的には225票対24票の大差で訪中の受諾が決まりました。しかし、次は日本の外務省が「国益をそこなう」とのことで、訪中許可を出さず、「第2回日中青年代交流」は実現せず、私も幻の代表団員で終わりました。
日本と中国の青年、再び闘う―破られた日中不戦の誓い
1967年、善隣学生会館には、中国留学生の他に「日中友好協会・全国本部」、「日中友好商社」「中華書店」等も入っており、この建物は、日本政府の中国的視政策のなかで、「日中友好センター」の役割も果たしていました。
中国のプロレタリア文化大革命の影響を受け、「日中友好協会」は親中派と反中派に分裂、それは全国の日中関係諸団体に波及し、「日中友好協会、倉石支部」も分裂し、15周年祭前後の動きになっていったのです。
親中派の「日中友好協会」が、この会館に残ることができたら、3月2日の不幸な事態は避けられたかもしれません。
反中派の「日中友好協会」と、中国人留学生が、同じ建物内で生活をつづけるのですから何がおこっても不思議はありませんでした。
小ぜりあいがつづくなかで、ついに3月2日、昨年までは「日中不再戦」を誓った日本人青年が「日中友好」と書いたヘルメットをかぶり、消火器、棍棒などをもち、無防備の中国人学生(在日華僑子弟)に襲いかかったのです。私はこの目で見たのです。
倉石先生は、「わたくしは1967年3月2日を、日中友好にとって『戦後最も暗黒な日』と称したい」と書かれています。私の家庭も、この黒い渦にまきこまれていきました。私たち両親の口論中、壁にむかいじっとしていた二人の娘、星火(5才)、民火(3才)の姿は生涯忘れることはできないでしょう。
この闘争の内で、「倉石中国語講習会」「家庭婦人のための中国語講座」「日中学院」は教室を失い、20数ヶ所での、分散授業を余儀なくされました。この三者の崩壊は時間の問題だと思われておりました。
そんな暗さの内、全国の600余名の人々の協力をいただき、神田神保町の「内山書店ビル」内に、「神田校舎」とし、教室をまとめることができたのです。
「中国へかける橋、V」には「日中学院、神田校舎創設の会」と「日中学院、校舎創設の会」の御芳名名簿がのっていますが、これ等多くの人々のご支援がなかったら、今日の日中学院は存在し得なかったでしょう。
学院が貧しいなか、学院は何回もお金をお借りしたことがありましたが、その内で忘れがたい有難さをあたえてくださったのは、山田和同学のお姉さんの朝香静さんでした。
「倉石」の授業の内では、新中国の息吹と新しいことばに触れるのは難かしかったので、1961年から、週一回ながらも放課後8時半からつづけられていた仲間の学習会「星期一会」もこれを機に閉会し、翻訳中だった胡可の「中国革命史講義」、「アジアアフリカ年鑑」は日の目を見ずにおわってしまいましたが、メンバー全員はその後も日中関係にかかわりつづけていきました。
中国語を何のために使うのか
1968年7月7日、盧溝橋事件のその日、かつて「満鉄中国語検定試験」等で、一級の資格を取り、ほうびとして日本刀を受けたような人々が中心になって、「日本中国語検定協会」なるものを作り、昔の夢を再びと「第一回中国語検定試験」を実施しようとしました。
その当時も「二つの中国」を考えているこれらの人々の企みに気づき、私はその危険性を筆名で、中国研究所の「月報」に投稿しました。
その計画が明らかになると、それは「中国語学会」をとりこみ、会長だった倉石先生、藤堂先生はじめとして、有名な先生方が名をつらねているのがわかりました。
そこまできているのではとの声もありましたが、若い人々の力で闘争の論は各地に拡がりました。私は、私の考えを倉石先生、藤堂先生等にお伝えし、闘争をつづけました。その事態が分かるにつれ、倉石先生、藤堂先生も身をひいてくださいました。
7月7日、右翼学生の力をたてに、試験を強行するとのニュースも入る内、会場に集まった我々に緊張がはしりました。しかし、試験は中止され、会場は勝利報告の会になりました。会場においでになった藤堂先生に、一言お願いしたところ、先生は“受験者の申し訳ないので参りました”とで、お話はいただけませんでした。
いま、この平和な世の中で、日本でもいくつかの検定試験が行なわれ、中国のHSK(漢語水平考試)も国際的な評価を受けるようになりました。
中国語が再び、他国への侵略等のために手段として使われることがないよう願うのみです。
日中国交正常化と「日中学院崩壊説」
1972年9月、世界の歴史の流れの内で「日中国交正常化」がなされました。日本の敗戦後いち早く日中国交正常化を願い、闘いつづけて来た勢力の力によってではなく、中国敵視をつづけて来た勢力によってなされたのにいらだったのか、我々のなすことはおわったと、友と三人で韓国へ旅立ち、日韓、朝韓の厳しさを味わって来ました。
1975年11月14日、倉石先生逝去。
倉石先生の病状悪化に伴い経営状態も悪化し、倉石先生なき日中学院は無意味と、11名の講師が去っていきましたが、多くの講師、学生、特に中国人講師の協力を得て「日中学院崩壊説」をのりきることができました。その後、今は逝き藤堂明保先生、牛島徳次先生を学院長、副学院長としてお迎えし、新しい道を歩みはじめました。時間はかかりましたが、去った講師のほとんどに関係をもどしていただけました。
1980年には、1967年3月以降、13年間にわたる分散授業内山書店ビルをお借りして長い仮住まいをおえ、再び善隣学生会館に戻ることができました。
この年から、日本政府(20億円拠出)、中国政府(5億円拠出)のもとに、ここ文京区の一等地2000坪(その財産権についてはふれない???)の土地を使っての「日中友好会館」構想の検討がはじまりました。
1964年、日中学院を学校化する時、日中学院は何の財産(物的)ももっておらず、資金を集めることもできず、最終的には倉石先生と会館理事会の間で「名義借り」が了解され、双方は不干渉、日中学院は独立して運営していくことが決まり、以後16年間、この状態はつづいてきました。しかし、会館の規模(資金だけで百億円)も大きくなる為として、会館側は日中学院の一体化をはかるため、さまざまな方策をうってきました。しかし、学院はどんなに苦しい内でも30年の伝統を守ってきただけでなく、会館側への協力(会館事業の大きな柱として)もすすめ、又、多くの闘争をかちぬいてきたので、現状維持を主張しつづけました。逝き藤堂明保学院長もこの線を守るため、日夜、労苦を重ねられました。
1985年2月26日、藤堂明保先生逝去。
その日、会館の村上氏と私は、種々の打ちあわせを行うため、先生の病室をうかがった直後のことでした。
先生は、その4月にはじまる新校舎の完成をみずに逝かれてしまいました。
新しい旅立ち
1986年、安藤彦太郎学院長を迎え、この年、学院はさまざまな企画を実現しました。
3月 日中学院校友会創立
4月 日中学院、日本語科第一期生17名を迎える。
8月 「日中学院、日中不再戦のための友好の船」を組織、112名が日本侵略の地、北京、瀋陽、南京を訪れ、日中不再戦を誓う。
1989年 天安門事件がおこる。各講座共、学生数が30%〜40%激減、中国政府と民主派の間で、学院もしばしば揺れました。
1989年11月 第一回「倉石賞」発表。
1990年、創立以来つづけられて来た在校生への「日中学院、決算報告、予算報告会」はこの年から中止されてしまいましたが、全校生への決算書配布、学院関係者、お世話いただいた方への発送はつづけられています。日中学院が存続する限り、この方針はつづけられていくことでしょう。
1991年、「創立40周年記念」として、「中国へかける橋V」を発行。
長い年月をかけた、多くの教職員、学生、校友、関係者等、皆さんの御支援、ご協力のお蔭で、日中学院は無から有へと育ち、財政の基礎も確立、それらしいきまりも作られてきました。お蔭で私も60才の定年を何とか迎えることができ、1994年3月、34年間慣れ親しんで来た学院を離れることができました。感謝にたえません。この間、多くの人々に不快なおもいをさせ、傷つけたこともしばしばでした。この場を借りて、深くお詫び申し上げます。
退職して6年、ひょんなことから、40年前には、夢にさえみられなかった中国留学が果たせ、穏やかな気持ちで中国の人々とおつきあいができております。しかし、いつ、いかなる場所でも、日中侵略時の傷あとを見ることを避けることはできませんでした。
日中学院、創立の精神である「日本の中国侵略を反省し、日中不再戦を誓う」を忘れず、「学好中国語、為日中友好起橋梁作用」をつづけて参りたいと思います。
2000年10月
北京語言文化大学留学生寮にて