[経済厚生]

(1)幸福度を測る難しさ(7/1) ***

幸福度を測る難しさには、考えさせられるものがある。

仏リール大学のカトリス教授は、GDPに代わる豊かさの新たな指標についての研究の専門家だ。「GDPは何十年も豊かさの尺度としてただ一つ君臨してきた。しかし、過去20年ほど見直しの動きが世界で起こり、新しい指標が無秩序なほど乱立している」と彼は語る。新たな指標は必要だと踏まえてのことである。

豊かさとは、世界共通なのか、それとも地域ごとに特殊なものなのか。豊かさは国や地域ごとに比べられるものなのか。そもそも比べるべきものなのか。

指標というからには、数量化したり金銭に置き換えたりする必要がある。しかし、豊かさには客観的なものと主観的なものとがある。特に、主観的なものを数字で表していいものなのか。

先ごろのリオデジャネイロでの「国連持続可能な開発会議(リオ+20)」では、採択される文書の原案に「幸福度の尺度としてのGDPの限界を認識する」というくだりが入っていた。これは、新指標をつくるおおもとの考え方である。そのため、健康、教育、環境、社会の持続可能性など、GDPでは救えない要素をどう見つけ、いかに指標に取り込むか競ってきたのであろう。

その意味で世界的に注目されたのが、仏サルコジ前大統領の委嘱を受けた委員会がまとめた「経済力と社会の進歩の測定に関する報告」(09年)である。委員会の中心人物はノーベル賞学者であったが、その報告には知的な重みがあった。しかし、「豊かさの中身、次世代に残すべき社会の姿をどう描くか」を経済学者に丸投げするよりも、もっと市民レベルでの意見が反映されるべきではないかという批判があった。結果的に、サルコジ前大統領が報告を施策に取り入れた形跡はなく、同大統領の人気取りの具になったにすぎなかった。

荒川区も指標の改善に取り組んでいる。「区民の主観的な幸福実感を大切にし、区民とのやり取りを通じて作業を進めたい」というのは、基礎自治体としての施策に限りがあるからだが、もう一点、これまでの指標が作る側の論理の押し付けになりがちであったからだという。

主観の指標化などの難問はあるにせよ、ブータンが国の目標に据えている「国民総幸福(GNH)」同様、指標が地域限定になることで、市民との距離は縮まる。

豊かさや幸福度を測る新指標探しは、世界的なブームでもある。しかし、その試みの一方で、指標としてのGDPへのこだわりはなお強い。成長の錦の御旗は、先進国でもまだまだ降ろせないのである。(参考文献:日本経済新聞)